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「私は判断を差し控える」とメダルを鋳造した懐疑主義者のモンテーニュではありましたが、やはり時代の制約からはなれることはできず、封建制の領主としての一面を表しています。この旅道中に馬丁を怒りに任せてぶん殴っています。現在では傷害罪に当たりますが、たとえアメリカ大統領のトランプでさえあっても、このようなことをすれば、一気に大統領の地位から引き摺り下ろされるでしょう。
「怒りは、これを隠すと内向する。わたしはそういう賢人ぶった顔つきをするために、心を苦しめるよりは、いくらか時期をはずしても下男の頬げたに一つ食らわしておやりになることをお勧めする。わたしは自分の激情を内向させるよりは、それを爆発させるほうがすきである。・・・わたしは怒るとなると猛然に怒る」(随想録)
自分の感情に素直になることは精神生活にはストレスを溜めないということでいいことかもしれません。現在の民主主義の世界に住んでいる我々から見ると、使用人を殴るということはあってはいけないことかもしれませんが、当時宗教戦争もほとぼりが冷めておらず、虐殺もあり、政治的にいろいろな問題があった時期ですから、いうことを聞かない使用人を殴るということは、ロバに仕事をさせるためのむちくらいに思ってもいいのかもしれません。
イタリアで雇用者を殺した二人の兄弟の死刑執行を見学しています。首を絞めて殺すところでは見物人は何ら声を上げなかったが、死体を切断する時には大きなどよめきが起こったと記しています。五体バラバラにされるともう天国に決して入れないという宗教上の思いがあるのでしょうか?
ボルドーの市長に任命されたという知らせで急遽モンテーニュはフランスに帰りますが、一緒に来ていた20歳以上も違う弟はイタリアで剣術を学ぶために居残ります。当時フランスからイタリアに剣術指南のために留学する若者が多かったと書いています。この弟はイタリア貴族の決闘に助太刀して、牢獄に入れられてしまいます。男の欠点は面子にこだわってすぐ刃傷沙汰になることです。ましてやフェンシングなど学んだとしたら、それを使ってみたいと思うのは若者だったら大いにありえることです。