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         清朝の没落は漢字の重みで潰れたと考えられます。この本でもそうですが、漢字の一つ一つに3000年もの歴史があり、一言言っても漢字ではそれに何百個の注釈がつきます。これでは前に進めません。正しく話すためには数千年もの漢字の歴史を知っていないといけないということは、これを習得するためにだけ時間が取られ、あとは何もできないことになってしまいます。科挙のためにどれほどの有能な中国人が暗記だけの人間になったかがわかります。それだから欧米に侵食され、かつては、物事の道理と文字を教えてやった辺方の蛮人・倭(チビ)・日本人にでさえ、国を荒らされてしまいます。
我々野蛮な日本人は「なに糞」と汚い言葉を発しますが、何千年もの悠久の文化をもつ典雅な中国では「何苦楚」という熟語もありますが、「なに糞」と言っているわけではありません。「何ぞ苦楚せんや」と読み、意訳すればこれほどの苦しみはたいしたことはないということになるでしょう。もちろんこの本の著者はこの「苦楚」の出典を晩唐の詩人杜荀子鶴に見出しています。
「燭は寒酸の影を共にし 蛩(キョウ=こうろぎ)は苦楚の吟に添う」
「洗濯」なる文字も日本では、家事のことや、家電の全自動洗濯機などと使われていますが、中国ではもともと心の問題として扱われていました。宋の蘇軾の詩に、
「但(た)だ凡心をして一えに洗濯せしむれば 神人の仙薬も我に遐(とお)からず」
東大出の銀行頭取の文章の中で「和以貴為」と書かれた扁額の思い出を語っているのを見て、さっそくこの本の著者は「以和為貴」の間違いだと指摘しています。東大の漢文の程度はこの程度かと嘆いています。これを載せた日経新聞も「お粗末」であると苦言を呈しています。意味が取れればいいんじゃないと言っても、中国語専門家には許せないことなのでしょう。