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     日本人は筆を持って縦書きものを書かないと、月たった2日出て、年収1000万円以上ももらえる、恥じらいのない天下り官僚が出てくるのだと言っています。石川の論点を推察してみると、西洋には神の観念があり、中国には天の観念があります。日本は中国の漢字を取り入れましたが、骨幹の天の観念を取り入れないで、不遜にも聖徳太子は隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という書面を出し、上下のわきまえもない、東海の孤島の田舎ものを晒し出しているということになります。万葉集からして、漢字の取りいれ作業は『洒落や駄洒落、地口落ちや、・・・謎謎など言葉遊びによって生まれた言語であり、いわば日本は「吉本興業」立国なのである』ということで、天の観念など毛頭ない漫才言語になったということになります。このような真摯のない言語では責任の取りようがなく、真面目にものを考えるような言語ではなく、「神は死んだ」と哲学的命題でも、「紙は死んだ」ととらえられ、もはやペーパーの書籍は時代遅れで電子書籍の時代になったのだと、軽くいなされる言語体系になっているようです。このような言語環境で育ってきた我々は責任や責務の取りようがなく、理念もなく、論争の術も知らず、思想も構築できず、ただ漫然と「恥じの文化」に没入し、辛うじて体面を保っているだけです。パソコンで文章を書くなんて、はっきり言って軽薄なものしかできないだろうと言い切っています。パソコンで企画書など出したからバブルが弾け、筆で「泡沫」と書いていたなら、バブルなど起こらなかっただろうと言っています。