[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
私が子供の頃、藤島恒夫が歌う板場(調理人)の演歌がありました。
「包丁一本、さらしに巻いて、旅に出るのも 板場の修業、待っててこいさん 悲しいだろうが ああ 若い二人 思い出にじむ 法善寺 月も未練な 十三夜。
(せりふ)こいさんが、わてをはじめて法善寺へつれて来てくらはったのは藤よ志に奉公に上がった晩やった。はよう立派な板場はんになりやゆうて、長いこと水掛不動さんにお願いしてくれはりましたな。あの晩から、わては、わては、こいさんがすきになりました」
このセリフを何とも情感をこめて言うのです。「わては わては」というところで、呼吸困難で死ぬのかと思うほどです。
昭和26年、上野が中学卒業して、大阪の仕出し屋「川喜」に「奉公」に出たときは、そのようなロマンチックな「こいさん」などいません。先輩に素手や鍋や包丁の峰で殴られていました。なにしろ先輩たちは戦争帰りの荒くれ者だからです。しかし上野は親元が貧乏で、また田舎者育ちですから、変な知恵がついていなく、職を変えようとする気転などありません。上野の経歴を見れば、「運根鈍」が成功の秘訣だと感じられます。何も知らず「食」の世界に入ったことが、「運」で、少々叩かれたぐらいでやめない「根性」と目先のきいたはしかいところがない「愚鈍さ」があったからこそ、この道でそれなりの名声をえたということになります。