[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
ウィーンでのヒットラーの挫折を中島はまるで自分の如きのようにとらえています。中島も東京大学の大学院に入れなく、33歳になってウィーンで博士を取るためにやってきたのです。博士号をとれるかどうか、たとえとれたとしてもこの先就職先はあるのかどうか、まるでヒットラーがウィーンで二度とも美術実科学校の入試に失敗し、路上生活者になったり、浮浪者収容所に入ったり、ユダヤ人の画商と組んで、絵を売ったりして、何とか独身者用施設に入ることが出来たり、とうとうここに見切りをつけて、ミュンヘンへ行くまでの生活と自分の生活を照らし合わせているのです。中島が留学した当時のウィーンには、中島のように私費留学生はおらず、政府給付留学生や「サバティカルをとってきた大学教授」ばかりで、彼らはみな「将来が保証されていた」人たちです。反対に中島は何ら保証などありません。ウィーンの街をさ迷い歩いたヒットラーと同じ心境になったのでしょう。ヒットラーにはクビツェクという友達がいて、1年遅れてウィーンにやってくるのですが、音楽学校に一発で試験に通り入学できてしまいました。ヒットラーはこの友に自分は美術学校に入学できていると嘘をついていたのです。まさしくこの点についても、中島は政府給付留学生や「サバティカルをとってきた大学教授」と比較して、自分をまさしく単に浮浪者に過ぎないヒットラーと同じだと思ったことでしょう。
しかしながら中島の場合、入学も簡単で面接だけで通り、ウィーンの大学では論文を書けば博士号ができると知って、ようやく博士の箔をつけることができました。その後の二人の生き方で、ヒットラーは世界を揺るがす独裁者に、一方中島は騒音に対して過剰反応する変わり者の先生になっています。