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前書きで、茂手木元蔵訳のセネカの哲学論文で、「意味不明な」ところがあるので、ドイツ語訳のセネカを読んでみたところ、意味が通じたと中野は書いています。おまけにドイツ語版ではラテン語と併記されていて、値段も日本の茂手木訳本よりも安いと言っています。一応、茂手木には「開拓者への感謝」を表していますが、「不信の念」もあったと言っています。
セネカは子供を亡くした母親に慰めの手紙を書いています。セネカが生きている時代から500年前、ブッタも子を失った母親に子を生き返す処方箋を与えています。「息子も娘も、また誰も亡くなったことのない家からカラシ種をもらってきなさい」と。ところがそのような家庭は一つもありません。どの家庭も誰かが亡くなっています。そこで母親は気づくわけです。「子供、家畜、財産に気を奪われて、とらわれる。人を死王はさらい行く。眠りに沈む村々大洪水がのむように」とブッタは詩にしたためています。
「人生の短さについて」では「なにも髪が白くなったとか、皺がたくさんあるからといって、それをその人が長く生きた印と思う必要な全くないのです。彼はながくいきたのではなく、単に長く生存したに過ぎないのですから」と言う文章がありますが、ブッタはもっと簡潔に詩に表しています。
「白髪頭であるというだけで、長老ではない。ただ年を重ねた彼を役立たずの老いぼれと言う」
これに関して中野は論語も引用しています。
「子曰く、飽くまでも食らいて日を終え、心用いる所なきは、難いかな」
大方のものが人生を無駄に過ごしているように思われます。まさしくブッタが言う「不死の境地を見ることなしに百年も生きる」ということになり、ブッタは対句として「不死の境地を見て生きる一日はこれに勝る」を付け加えています。
「いま為すべきことを為さず、人生を先送りする。これは大抵の人がやっていることだ」まるでブッタや孔子が言っているようなことをセネカも言っているのです。賢人は東西に関係なく思うところは同じだと思われます。
ダメ押しに最後セネカの言葉で終わりましょう。
「80歳いきたところで、もし怠惰に過ごしただけなら、何になるでしょう。そんな人は生きたのではなく、人生に在ったにすぎません。遅く死んだのではなく、長く死んでいたのです」