[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
この本を出すにあたって、久保氏の長男と奥さんが反対されたという裏話が書かれています。家族の思いはこのようなものを書いて犯人たちが復讐のために自分たちに危害をくわえるのではないかということが心配だったのでしょう。定年になったのだから家族ともども静かに過ごすことを願ったのでしょう。犯罪者にはわけのわからん人間が多いのですから、このような者のターゲットにされては命が何ぼあっても足らないでしょう。久保氏は定年退職しても刑事の癖は直らなくて、あれやこれや聞きまわることをやめてはいないようです。たとえば寿司屋に青磁器が飾ってあったら、その店の大将に唐津に親戚でもいるのかとカマをかけて伯父さんがいるのだと言う証言を引き出しています。久保氏にとってこれは習い性ですから何とも感じられないでしょうげど、周りのものは鬱陶しくてたまらないでしょう。刑事には「カン」が必要だと久保氏は言っていますが、アメリカの心理学実験において「カン」ほどあてにならないものはないという結果も出ています。どんな実験か忘れましたが、「カン」は一種の思い込みであり、バイアスのかかった偏見に過ぎないという事が証明されているということです。しかし刑事も長年やっていると「ビック・データー」なるものが蓄積されて、余人とは違う感覚を身につけることができるのかもしれません。自白重点主義の過去の捜査手法は冤罪をたくさん生み出しましたが、多分間違った「カン」で犯人とおぼしき人物を捕まえていたのでしょう。でも今からは個人が持てる「ビッグ・データ」よりは社会全体が持つ「ビッグ・データー」を活用しないと、何事も解決できないでしょう。将棋でも個人ではさしさわり今一番安全で指しなれた手を指す傾向がありますが、コンピューターソフト将棋では過去の膨大なデーターから寄せまで読んで差し手を進めます。個人の経験の記憶は膨大なように見えますが社会全体に対しては微々たるものです。
もはや個人の「カン」に頼る時代は過ぎ去っているのかもしれません。
寿司屋の店に青磁器が飾ってあってもそれが唐津の方に大将の親戚がいると突き止めてそれで満足していてはそれが寿司屋の店に青磁器が飾られているということと全く関係ないことかもしれないのです。勝手に久保氏の「かん」が深読みしただけで、全く意味のないことかもしれないのです。