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最近は俳句は何を書いてもいいし、575でなくてもいいし、季語もなくても、自ら俳句だといえば誰も文句がいえません。例によって私が気に入った俳句を抜き出しておきましょう。
「ショートケーキ苺を高く銀座春」(山口青邨)
今日もニュースで牛乳の生産が落ち込んでバターを緊急輸入すると出ていました。ますますバターがたかくなって、ショートケーキも一個500円位するのでしょう。
「急流のごとき世なれどオデン酒」(百合山羽公)
百合山は明治生まれですが、今でもこの感覚はわかります。私の店にもITについていけないオジサンたちが冬場ホッとしながらオデンをつついています。残念ながら夏場はおでんをやっていません。いまは冷奴で一杯というところでしょうか。
「今生のいまが幸せ衣被(きぬかつぎ)」(鈴木真砂)
真砂さんは銀座で小料理屋をやっていました。「ゆく春や身に幸せの割烹着」「割烹着」なつかしい。私の母も着て商売をしていました。私も割烹着を着ていますが、ほころび、破れ、いかにも貧乏じみた店の店主になりきっています。
「憂いことを海月(くらげ)に語る海鼠(なまこ)哉」(黒柳召波)
ありそうでもないことですが、わかるような気がする俳句です。
「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」(正岡子規)
子規の母は生まれながらの俳人だったのでしょう。母の口癖がそのまま俳句になっています。
「客観のコーヒー主観の新酒哉」(寺田寅彦)
寺田寅彦には随筆として「コーヒー哲学序説」というものがあります。
「・・・一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であるといってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくとも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである」
「菫ほど小さな人に生まれたし」(夏目漱石)
夏目漱石のようにビッグになると、このような俳句も言えるようになる気がします。ビッグでもない私がこのようなものを書いても、ああそうですかで終わるでしょう。
「ふるい泥鰌やが生きていてどじょうでござい」(橋本夢道)
このようなものを詠むと私にでもできそうな気になります。
「人生の裏街道の涼しさよ」(中田みづほ)
「裏街道」ときては演歌でしょう。演歌ではこの「涼しさ」が「オドロオドロ」になるかもしれません。オドロオドロではマンネリでやはり「涼しさ」がポイントを上げています。
「死後のことはしつちあゐねいや夏さかん」(和田耕三郎)
私もそう思っていますが、葬式では焼くだけでいいとか、香典はもらわないとか、あれやこれや考えることもあります。