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まだ生きているのかと思っていましたが、2011年5月に亡くなっています。児玉清の「負けるには美しく」という自叙伝風なものは去年の5月に読んでいます。表紙の写真は俳優という風には見えないで、大学の教授のように見えます。学習院のドイツ科卒で、大学院に入る予定だったのが、卒業式に母が急死し、仕方なく受けた東宝の俳優試験に通って、それで俳優になった人です。小説好きで、冒険小説、探偵小説、スリラー小説の好きな人で、翻訳を待ちきれなくなって原書で読んだという人です。現実では地味な俳優でスターにはなりきれなかった児玉は小説の中でその主人公に身を託してスター気分を味わっていたのでしょう。誰しも変身願望はあるものですが、小説ほど安易にその願いをかなえてくれるものはないでしょう。ソレがいいのか悪いのかははっきりしませんが、スター気取りで街中を車でぶっ飛ばしたり、いきがって相手を侮辱し殴りあいになるといったような社会の安寧を乱すような行為をしないで、それらを本の中でおとなしく味わっている分社会に対しての危害はなく、褒められるべき行為だと思われます。しかしながら読書家諸子たちは往々にして自分の趣味に没頭し、世間との関係を断ち切る傾向があるようです。児玉清も晩年になればなるほど、日本の政治家や経済人、ギャルの集団の騒がしいこと、新幹線での子供を自由奔放にさせている親、飛行機の中で髭を剃る男など腹を立てることが多くなっています。ソレを書くだけで、それらをとっちめてやったという記録はありません。行動は出来ないで思うだけというのが読者家諸子の欠点です。「負けるには美しく」で天下の黒沢明監督を殴りたかったけど殴らなかったと書いていますが、それにたいして私はもし殴っておれば勝新太郎にもまさる俳優にでもなっていただろうとコメントしましたが、今ではそうすればトランプ大統領にでもなれたであろうと言う事でしょう。