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あまり目立たない俳優です。スターではなくて、脇役といった感じの俳優です。学習院大学出で、昭和33年、東宝の第13期のニューフェイスです。黒沢明監督の映画にも単なる影を撮るためだけの役で出たこともあります。どうせ脇役だからドーランを塗らないででたところ、黒沢に見つかれ、怒鳴られました。それでドーランをたっぷりつけて出たところ、それなど関係なく影だけを撮られたのです。映画現場ではこのようないじめがよくあるそうです。同じシーンを何回も撮りなおすのも半分はいじめが混じっていると思えばいいでしょう。でも浜美枝とのスポーツカーでのキスシーンは何度撮りなおされても、男優ならいじめとは思われないで、ご褒美だと思うことでしょう。007にも出た浜美枝のぽっちゃりした唇を吸うのは何とおいしいことでしょう!目立たない俳優であった児玉も時にはそういうおこぼれも味わったいい思い出もあります。映画俳優では鳴かず飛ばずの大部屋役者だった児玉もテレビに出だした頃から名が知られてきます。そうはいってもキンキラリンの派手な男ではないものですから、影の薄いお父さん役が多かったということで、いてもいなくてもいいのだけれども、話のリアリティ上、いないとこまるという役柄をそつなくこなしていました。我々がよく知っているのは児玉清がクイズ番組の司会者の時でしょう。「アタックチャンス」などと叫んでいた頃が、児玉清の絶頂期ではないでしょうか。
この本のタイトル「負けるのは美しく」の由来は、スターになれないもどかしさから、半ば自嘲気味に、半ば諦め気味につけたと思われます。
「そこで心に期したことは、負けることは美しくということであった。所詮、僕のスタイルで押し通そうとすれば、最後にはすべて喧嘩になり、暴発してかぎりがない。ここで思い出されるのが、性格は運命だというヘラクレイトスの言葉だ。ならば、どうせ負けるなら美しくまけよう。このことにこだわっていれば、もしかしたら、嬉しい勝ちの日を迎えられるかもしれない。いやこれは冗談だが、すべては負け方にあり、負けか方こそ人間の心は現れる、と、しきりに思うことで、心が静まったのだ」
ドーラン事件で黒沢を殴ってやろうと、若き日に、思いつめていた児玉に、彼の友が大いに殴れとそそのかされたことで、気がそがれ、かえって殴り気になれなかったという児玉の述懐がありますが、天下の黒沢を大部屋の役者が殴っていれば、影の薄い俳優にならなくて、勝新太郎のような俳優になったかもしれません。学習院出の知性が禍をして、破天荒の要素が必ずあるスターというものにはなれなかったのでしょう。それにしても、ここで気づかされるのは現在問題になっている桝添要一東京都知事のことです。同じ都知事の石原慎太郎の無駄遣いが問題にされないで、それよりは輪をかけて小さい桝添のそれがとやかく言われるのかを考えてみると、石原のように勃起したペニスを障子紙に突き通すのと、桝添えのようにこそこそとオナニーして塵紙で拭いている(桝添えにはそのようなイメージが付きまとう)という違いにあるのではないかと思われて仕方ありません。このようなこせこせした男はいじめ甲斐があります。反抗しないと思われるからかえっていじめが倍化します。ここで桝添えに忠告です。ヒールになって、集まってくる新聞記者どもを馬鹿呼ばわりすればいいのです。俺は東大出だと声高く叫び、どこが悪いのだと居直ればいいのです。冷静を装いつつそこに怯えのようなものをにじまして、「第三者・・・」などと言っていては、ますますメディアを付け上がらせます。「赤門を出たことがない奴にとやかく言われる筋合いはない」と堂々と高言すれば、我々赤門を出たことがない者はある程度納得するかもしれません。