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大正9年(1920年)生まれです。私の母は大正10年生まれですから、我々団塊の世代では原節子は母親の世代です。表紙の写真の和服姿は懐かしさを感じさせます。どうしても母をダブらせてしまいます。実際原節子に出会った人は日本人離れした堀の深い西洋顔といって、外人の血が混じっているのではないかと訝しがっています。彼女の祖父が下田の出身で、下田はペリー艦隊などが来たところですから、アメリカの船員と日本の娘が関わりあって祖父が生まれたのではないかという疑念です。体も大柄で、当時の日本の女優とは何か異質なところがあったようです。
ナチスドイツとの合作映画「新しき土」に主演し、「永遠の処女」というイメージができあがります。美しいばかりで俳優としては大根役者だという評価ができてしまって、戦後は彼女はそのイメージの払拭に骨身を削ったが、昭和37年(1962年)「忠臣蔵」を最後に、結婚もしないまま女優をぷっつりやめてしまいます。2015年まで生きていて、95歳で亡くなっています。引退から半世紀、ずっと独身だったのでしょうか?引退したのが42歳で、まさしく女ざかりの頃です。たとえ女優をやめても、「永遠の処女」というイメージが追い被さっていて、おいそれと男と一緒になることができなかったのでしょう。美しいということも女にとって大いなる負担になるということがわかります。思わず弱音も吐いています。
「若い頃はねぇ、若さだけできれいだけれど、この年になると、疲れた時の顔ってみっともないと、つくづく感じますね」
小津安二郎の映画「麦秋」のセリフにも使われたものに、原節子がよく漏らしていた言葉がヒントになったものがあります。
「もしあたしと結婚する人がいるとしたなら、子供がいて奥さんに死なれた人ぐらいね」
ただ美しさでよって来るような男ではなく、酸いも甘いもかみ分ける熟成した男こそ、彼女が願っていた男かもしれません。