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土井中照 大食らい子規と明治

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土井中照 大食らい子規と明治


        「のぼる」さんと、家族からも弟子からも言われていた子規は晩年寝たきりになりましたが、何と豊かな介護を受けたことでしょう!真夜中、子規が死ぬと、母親は、のぼる、もう一度痛いと言ってみいと嘆いたそうです。

私も介護を受けるような状態になるかもしれませんが、子規のような介護を受けることができないでしょう。子規は母親、妹、門弟たちによって手厚い介護をうけていました。全国にいる門弟からはその地の果物や菓子など送られています。バナナやパイナップルも明治にはほとんど見かけなかったものも友達から贈られて食べています。リンゴや柿なら一日に10個くらい食べ、アンパンも一度に10個以上食べていました。門弟の医者・宮本仲は果物の食べすぎはよくないと子規に言いましたが、子規は、寝たきりになり、果物を食べるしか人生の喜びがなくなったと答えると、それ以上何も言えず、彼もまた子規にリンゴを送ったそうです。子規のリンゴの食べ方は、皮を厚めに切り、その皮の裏側をチュウチュウ吸っていたそうです。皮と果肉の間が一番甘いと知っていたのでしょう。ミカンもよく食べ、「蜜柑剥く爪先黄なり冬籠」という句も残しています。

夏目漱石が四国の松山で先生をしている頃、子規は尋ねて行き、52日間泊まり、そこで毎晩蒲焼を食べ、おまけに帰り際、漱石から10円借りて、京都などで散財して、東京に帰ってきています。当時の俸給者の平均賃金は月4円程度ですから、現在に換算すると40万円くらいになるかもしれません。子規はその金を漱石に返したのでしょうか?毎日のウナギの蒲焼の代金も漱石に付けていたようです。これもすべて「のぼる」さんの徳によるものでしょう。神経質な漱石も子規の前では胸襟が開け、東大予備校時代の同窓としての闊達な関係に戻ることができたのでしょう。散財した京都で、子規の一番有名な句を作っています。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

これは漱石の、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」に対抗して作ったものです。

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