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坂口安吾 「歌笑」文化

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坂口安吾 「歌笑」文化


        懐かしい芸人の名が出ています。今の芸能界はさっぱりわかりませんが、昔の芸人ならまじまじとその姿が甦ってきます。あのはげ頭の金語楼、アチャコに横山エンタツ、徳川夢声。歌笑は残念ながら進駐軍のジープにはねられ、1950年、32歳で亡くなっています。歌笑は顎の張った不細工な顔で大いに売れたそうですが、私が3歳の時に死んでいますから、残念ながらわかりません。金語楼と比較するぐらいですから、当時では人気者であったのでしょう。自分の顔の不細工さを売りにする落語家には柳亭痴楽がいます。「
柳亭痴楽はいい男、鶴田浩二や錦之助、あれよりずーっといい男、てなこと一度でも言われてみたい、言わせたい、ああ、それなのに、この僕は黒の紋付、扇子に袴、お札配りじゃあるまいし、一年365日、ヘラヘラ笑っているのです・・・・」と前口上で「痴楽綴り方教室」なるものをやっていました。また「破壊的な顔の持ち主」などと言ったりして笑わしていました。歌笑をYouTubeで聴きましたが、前ぶりで七五調の「歌笑叙情詩集」なるものをやっていて、痴楽は歌笑をパックッたのでしょう。

「われわれがそれを期待してよろしいのは、ジャズや、ストリップのような、時代的に最も俗悪なもののなかからだ。最も多くの志願者と切実な生活の中からあらわれてくるのだから。それが生きている時は俗悪な実用品にすぎないものが、古典になるとき、芸術の名で生き残る。生きながら、反時代的な粋や通に愛され、名人の名をうけるものは、生きている幽霊にすぎないのである。」

まさしく芸人は死んでこそ「芸術」になれるのです。それ以上に死ぬ前の前段階で、「時代の中に」どっぷりと「飛び込んで」いないと「一流の芸術家」になれないということを安吾はしきりに言っています。だから古典落語をやって「名人」だと言われている落語家は安吾に言わせると、「時代とかけ離れたものから、一流のものがあらわれる見込みはない」ということで、「生きている幽霊」でしかないという結論になります。このようなものは「粋」や「通」ぶった珍重されるだけで、その時代を鷲づかみにする偉大な芸術家にはなれないということです。歌笑も「偉大な芸術家」とはなりませんが、その時代の大いなる寵児であったことは間違いありませんし、なおかつ安吾は歌笑に他の落語家にはないものを指摘しています。

「歌笑にひとつの独自性があったとすれば、彼の芸の背景にしっかりとした骨格をなしていた醜男の悲哀であったろう。それは菊池寛の骨格をなしていたそれよりも、もっとめざましく生々しいものであったし、彼はそれを、ともかく生々しくない笑いに転置することに成功していたのである」

これは日本のぶおとこの系譜につながるもので、渥美清もその中に富士山ように燦然と輝いています。

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