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読書

城野宏 三国志の人間学


       中国と日本の歴史を比べて、日本人は甘ちょろいと城野は言っています。中国の戦争は異民族の戦争のようなものであり、勝者が一方的に敗者を根こそぎ排除しています。親戚縁者やそれに関連する全て人間を根絶やしにするのです。今の共産党政権でもこの体質は変わりません。習近平体制が壊れるとその一派がすべた排除されるのですから、習近平はどんな手段を使ってもこの体制を維持しようとします。漢民族が多数を占めるといっても、多民族国家であり、その間の軋轢は厳しいものがあります。反対に日本は、アイヌがいたとしても、ほとんど吸収されて、単民族国家であり、戦いが起きても、頂点にいる人とその縁者が最悪の場合殺されか、それか島流しにされるかです。その人に恩顧を受けた人にまで被害が及ぶことはまれです。日本の民衆は上が代われば素直にそれに従って、年貢や税金を払っていくだけです。日本人は政治意識がないとよく非難されますが、かえってそれが日本の平和をもたらしているのかもしれません。上のことはあずかり知らぬという無関心さが、権力意識の強い人たち間の争いを、ヨーロッパ、中東、中国のような弱肉強食といった制限のない闘いにしないで、ほどほどのところで手を打ち、あとは和歌でも作り女をくどくことに専念したということになっている、というのが城野の主張です。

「泣いて馬謖を切る」という有名な言葉があります。軍規のために、有能な馬謖を切る羽目になったという諸葛孔明の嘆きもありますが、劉備が死ぬ前、孔明に「馬謖は言大にして行いは小なり。肝要なところで使ってはならぬ。うまくいっているときはいいが、危ない時は使うべからず」といっていたのに、実戦経験のない馬謖に街亭の守備に当たらせ、それが失敗だったことがわかり、劉備の人間を見る目の確かさと、反対に自分の目のなさを思い知ったということで、大いに嘆き悲しんでいるのです。劉備はほとんど泣いているばかりの将軍ですが、50歳半ばの劉備が30前の諸葛孔明を「三顧の礼」をもって軍師として迎えるのを見ても、単なる街のヤクザとは違うスケールの大きい人物だとわかります。

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