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塩谷篤子 山路商略伝

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塩谷篤子 山路商略伝


       山路商は特高の「黒山」左翼係り主任に捕まり、痛めつけられ、釈放されましたが、喉頭結核に罹り、昭和19年6月26日に死亡しました。あと一年ちょっとで終戦ですが、そのあと原爆が落とされ、たとえ元気であっても住居が比治山と京橋川の間の段原にあったので、死は免れなかったでしょう。40歳の短い人生でしたが、自分の好きなことをしてきたのですから、納得できる生涯だと思われます。

父が満鉄の社員でしたが、大正9年に神経痛で退職し、広島に居を構えたということです。退職金も多くあったのでしょう。長男の商のために画材店をやらせますが、儲けることはなく、やがてそこは商のアトリエになります。自画像を千枚くらい描いたといわれますが、原爆で彼の作品はほとんど塵埃にきします。彼の残った作品を見ますと、写実画のようなものもあり、抽象画のようなものもあり、モディリアーニの似たもの、ダリに似たもの、ピカソの似たもの等々、昭和のはじめ頃、かくも芸術とは縁のない田舎の広島にも世界の絵画の潮流が流れ込んできていたということがわかります。柳橋のふもとにあった屋台で焼き鳥を食いながら酒を飲んだり、新天地や流川で騒いだりしています。広島のロートレックと言われるだけに、歓楽街の女給、辻占い師、喫茶店の店主などに、その辺を歩くたびに声をかけられていたのでしょう。表紙でも出ているようにこのようなおかっぱ頭では一目見ただけで忘れることができません。「商ちゃん、商ちゃん」と呼ばれて、広島では有名人であったと思われます。それにしても商の衰弱のきっかけを作った「黒山」は敗戦後どうなったのでしょう?案外広島県警にしぶとく生き残って、満額退職金をもらって悠々自適の晩年だったかもしれません。

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