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亭主の藤原兼家から「雨蛙」とあだなされたこの日記の作者の本当の名前はどういうものであったのでしょうか。自分が生んだ藤原道綱から、道綱母とも呼ばれています。
亭主の藤原兼家の本妻は時姫で、道隆、道兼、道長を生んでいます。現代風に言うと「二号さん」にあたります。平安時代そのような意識がなかったかもしれません。なにしろ彼女の父親が国司で、兼家より身分が低かったかもしれませんが、経済的には何ら心配などなく、今風に妾にでもなって贅沢をしたいという意識などもってはいません。
二号さんと言っても、家には使用人がたくさんいて、永井荷風の画く「妾」というイメージからは遠くにあるものです。
そうかといって、本妻に対する敵愾心もあり、兼家が町の女に子供を生ませ、それが男の子であったということで、大いに落胆もしています。しかしこの男の子が病死すると、ほっとしたりしています。道綱が弓の試合で勝ったりすると、喜んだりもしています。
遠出をして川原に死体があったということも日記に書いています。貴族たちは優雅な生活をしていましたが、一般庶民は飢饉などで餓死する人が多かったのでしょう。犬なども京都の街中で死んでいて、それを見た道綱も「物忌み」で一日謹慎したということも記されています。
おおよそ今から1000年前に女性が日記を書いたということはほかの国にはないでしょう。現代でも日本だけがツイッターやFace Bookの使用が断然と飛び抜けているは、このように日本人は大昔から「記録」することが大好きな国民だとわかります。どんなつまらない事でも1000年も経つと、えもいわれぬ価値が芽生えてきます。おまけに日本人のメール大好き傾向はこの当時の和歌のやり取りで証明されています。男も女も相手をひきつけようと思って、盛んに和歌を作っています。優秀な和歌は選集に集められて、後生に残るようになっています。
道綱母の和歌も藤原公任の「十五番歌合」に載っています。
「嘆きつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る」