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儒教や仏教が入ってきて、江戸時代にはかっちりと男尊女卑の社会になっています。婚姻は親同士、家同士が決めるものであり、家の相続が主な目的でした。女には貞淑が求められ、男の子供を生むことが要求されます。男には貞淑は求められません。廓などへ行って、花魁や女郎と楽しむことができます。時にはのぼせ上がって心中もしたりします。そのような男は「粋」というものを知らないのでしょう。「粋」とは自らのぼせ上がるのではなく、相手、花魁や女郎をいかにのぼせ上がるかを競うものです。要するに他の男たちからいかに自分がモテモテだということを知らしめたいのです。この「粋」も、孫悟空が何千キロ飛んだって、仏様の手のひらの中だったというように、花魁や女郎の手のひらで遊ばしてもらっているに過ぎません。商売ですからよいしょして気持ちをよくさせ、男に自信を持たしているだけです。このように日本の男性は女性からスポイルされて、異性としての成長が止まってしまいました。何もかも母のように世話をされていつまでも子供のままです。それの象徴が夏目漱石の「坊ちゃん」です。清というお母さん的なものに包まれて「坊ちゃん」は恋愛体験ができないのです。明治になって、キリスト教や騎士道精神によるLove(日本人はそれを恋愛と訳しました)が入ってくると、戸惑いが生じます。この戸惑いが夏目漱石の小説群です。騎士道精神とはお姫様が騎士に何かするものではなく、騎士そのものがお姫様に何かをしてあげたいと、跪くものです。お姫様は冷徹に騎士の能力や資産を査定します。お母さんのように適当に甘やかしたりはしません。お前は一体私に何ができるのかをお姫様は問い続けるのです。ダイヤモンドやお城をくれたら、その気になるでしょう。いままでおべんちゃらを言われてふんぞり返っていた日本男子がいまからは女子におべんちゃらを言わないといけないと知ると、結局夏目漱石の小説は女子の批判に耐えられなくて、男と男の愛というホモセクシャルな小説に変わっていくようです。