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昭和33年から昭和64年(平成1年)まで続いたショウ主体のキャバレーです。アメリカからタレントや日本の一流の歌手がニューラテンクォーターの舞台に立っています。力道山もここでヤクザに刺され、予後の不摂生から死んでいます。お客は満席で300人しか入れなくて、高いギャラのタレントを呼べば、たとえお客さんから料金として10万円もらっても採算にあわない時もあったと回想しています。トム・ジョーンズのギャラは一晩で3400万円、全くの赤字です。にもかかわらず続けられたのは日本が高度成長時代のせいかもしれません。その当時はたとえ一日赤字でも、その次の日にはその赤字の何倍も儲けることができました。広島でもスタンドのママが毎日儲かって行李に札を踏みつけて入れていたという話を聞いたことがあります。お客も明日のことは余り考えず、ボーナスをもらっても一晩でスッカラカランになって道端に寝転がっている人もいました。このような無茶をしても明日には何とかなるという、未来に対する明るさがあったのでしょう。いい時代なのだったのか、狂乱したばかげた時代だったのかは私もよくわかりません。
やがてホテルニュージャパンの経営者が横井英樹になり、大火災を起こし、ホテルニュージャパンの地下にあるニューラテンクォーターもやめざるを得ないようになります。同時に時代も変わってきたということです。たった300人の金持のお客さんだけでやっているほど、世の中が悠長ではなくなってきたということです。タレントの招聘も、球場で何万人もの観客を集めて、巨大なスピーカーでどんどんやるようの状況になってきます。
山本信太郎の親父も博多でキャバレーを経営し、息子に東京でのキャバレーをまかしたのですが、彼の叔父が東京で右翼の頭目児玉誉士夫の部下である吉田彦太郎で、東京のやくざも手が出せなかったのでしょう。このような名があると特にショウビジネスヤ、夜関係の仕事がしやすいようです。ここで山本は面白い話を披露しています。それは児玉誉士夫の家に泥棒が入って、その後児玉がこう言っています。
「このころの泥棒は表札を見んのかね」
こういう人たちにとって、名前を見てもびびらないのは何とも拍子抜けの事態だったでしょう。時代はいつの間にか変遷しているのです。中心にいると思っていても、いつのまにか周辺部に流されているということがしばしば起こります。