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この本を読む途中、うとうとして夢を見ました。死んだ兄が現れて、明日どこかに一緒に行くために、私が店で自分たちが食べる焼きそばを作っている夢です。死んだ人が夢に現れるということは、もうそろそろ私も死の淵に来ているのかもしれません。幽界からの招待状が届いているのでしょう。それなのに私はこの歳で株をやり始めて、儲けてやろうと思っています。そうは言っても、1000円かそこらで儲けた、損したという、一喜一憂するかわいいものでありますが、まるで死ぬことなど眼中にないようです。
島田裕巳は一時期オーム事件で叩かれて、病気になったとこの本で書かれています。テレビである学者が島田裕巳を出前持ち程度だとこき下ろしていましたが、飲食業界に携わる私にとってはこの学者の言葉にカチンときたものです。「そういうお前はどれほどのもんじゃい」といいたい気持ちに駆られました。しかしながらその学者は旧帝大を出ているか、戦後ならその流れの大学を出て、大学院まで行っているでしょうから、彼に言う言葉には権威がこもっているのでしょう。表向き人間は平等であると唱えていても、これらエリートには厳然として、階級意識が残っているのだと感じた次第です。
島田裕巳もそれによって仕事もなくなり、アカデミックな世界から追い出され、苦労したようですが、硬軟取り揃えた数々の著作で、復帰を遂げています。しかしながいまだにどこかの大学での教授にはなっていないようです。負け惜しみのようにも聞こえますが、「働き蜂よりプア充」の項で、彼はこう書いています。
「いわゆるいい学校に行って、いい会社に行って、けれどそういう人のほとんどは偉くなっていません。その会社の社長にはなれるかもしれませんが、それが働き蜂の最高程度です。決して女王蜂になれないのです。食いっぱぐれを恐れて、何とかそうならないようにと考えると働き蜂コースを選んでしまいます。・・・むしろ働けば働くほど税金は取られますし、健康保険料もたかくなってしまいます。中途半端なお金の稼ぎ方が、今一番損です。それが働き蜂です。働かないと罪悪感がある、というのは古い世代の発想です。適度に働き、あとは社会であまっているもの、安くあるいはタダで使えるものを使わせてもらうのです。人生にはそういう選択肢もあるのではないでしょうか」
たぶん島田裕巳は彼を「出前持ちに」なれば言いといった学者のことを想定して言っているのでしょう。「食いっぱぐれを恐れて」学者になったような人間いは「偉い」奴はいないといいたいのでしょう。