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読書

川崎昌平 知識無用の芸術鑑賞


       「芸術とは思考のための素材である」と前書きに書いています。

ゴッホが生きていた時代には、ゴッホの絵は二束三文であったが、現在では何十億円もしている。もしゴッホが生きているときに何十億円の収入があったなら、果たしてゴッホは絵を画きつづけていただろうか?私なら絵を画くような辛気臭いことは止めて、ファッションモデルかレースクインを集め、日々乱痴気騒ぎをしているだろうと思います。ゴッホの絵を見て、こう思うのも、「芸術とは思考のための素材である」ということですから、正しいのかもしれません。また裸婦像の絵画を見るより、生身の女体をみるほうが、私にとって感動や欲望を引き起こすので、女体こそ芸術であるといえそうです。まさしくこれこそが知識無用の芸術鑑賞となります。

「芸術とは思考のための素材である」と言いつつも、本文では、『この絵を見て「意味が分からない」と思ってしまった人はまず「意味」を欲しがるその心を改める必要があります』とも言っています。「どこかから借りてきたお手軽な理解」で満足するようでは、「美術館にいる資格はない」と継ぎ足しています。だから美術館では一端絵を見たら、目を瞑らないといけないと言っています。つまり目を瞑るということは、「現実の絵と鑑賞者との思考が生み出した絵の融合は、目で見るだけでは決して気づかなかった、その絵の本当の姿を導き出してくれるかもしれません」ということになるのです。

芸術はムダだがそのムダも大いなる意味があるのだということを荘子を引き出して説明しています。

恵施「君の話は大袈裟ばかりで、ちっとも役に立たない」

荘子「そう?じゃあ役に立つ話をしてあげようか」

恵施「頼むよ」

荘子「君が立っている地面があるね。その地面以外の地面をそっくり削り取ると」

恵施「削り取ると?」

荘子「それでも君の足下の地面は役に立つのかな」

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