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聖徳太子が厩の前で生まれたというのは、キリストの誕生にもとがあって、だから聖徳太子は架空のものだという説があります。635年にキリスト教が中国に伝わり、日本書紀は720年に完成されたのであるから、中国からキリスト誕生の逸話が伝わってきており、それを聖徳太子に当てはめたというのではないかということです。同時に日本書紀を創ったのは当時の権力者の藤原不比等と長屋王であり、律令国家の権威を示すために聖徳太子像なるものを創作して、自分たちの権威を高めたのではないかということも考えられます。聖徳太子も蘇我氏の一派であり、厩戸皇子と名づけられたように、馬飼集団の一員であります。蘇我入鹿、蝦夷という息子と父が天皇にも勝る権力を持ったことで反対派から粛清されましたが、蘇我の本家が潰されただけで、傍系は生き残り、蘇我から石川、藤原と名を変え、藤原不比等まで至り、政治の中枢を担うようになっています。
蘇我氏は朝鮮半島の百済から、馬を戦闘に使う技術やら仏教をいち早く取り入れた集団です。目先の利く人々であったのでしょう。単なる豪族から天皇家に自分たちに娘を妃に入れるほどの名家になりました。本家の蝦夷が自殺して家を焼き払ったので、天皇家の貴重な文献や宝物はなくなりましたが、傍系が平安時代までも生き残り、藤原の栄華を極めています。