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読書

後藤健 メソポタミアとインダスのあいだ


    イランとアラビア半島の間にあるアラビア湾や、オマーン湾では、近いところでは100キロもないようです。船で行き来するのは簡単です。またチグリスユーフラテス川のメソポタミや文明と、インドよりのインダス川のインダス文明との通路である、アラビア湾、オマーン湾、アラビア海を繋ぐ距離は2000キロくらいです。これらの地域の出土品にはBC5000年頃のものが出てきます。はっきりとした文明の形を取ってきたのは、チグリスユーフラテス川方面でシュメールの王朝ができたのはBC3000頃、インダス方面ではBC2900年の頃です。当然その間に挟まれたアラビア湾やオマーン湾の島々や沿岸部にはそれぞれの文明の中継基地ができてきます。それらの島々にはそこでは産出されない銅製品が出土したりして、離れた地域から運ばれたものだとわかります。もちろん土器も同様です。この本を一読しただけでは、民族の変遷がどうであったかはよくわかりません。実際空白のところも多いので、はっきりとわかっていないのが実情です。学者たちは古墳を発掘して、クロスパズルのように、それらの空白を埋めていく作業をしているのでしょう。頼山陽が生きていた江戸時代、広島から江戸まで早ければ一ヶ月で着いたということを考えれば、2000キロの距離など一年もかからず、つくことができるでしょう。おまけにラクダや船があれば、もっと楽に到達できるかもしれません。このようなことを思うと、文明は孤立するものではなく、すみやかに拡散していくものであるということになります。今ではインターネットで瞬時ですが、古代もそれほど時間がかかったとは思われません。

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