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京都大学中、近所の床屋の主人に将棋の強い人がいて、その人について将棋を習い、その後文壇で彼以上に将棋で強いものがいなくなります。京都に行ったのは、一高で、マントを質入れし、それが菊池寛の友が他の一高生のものを盗んだものと発覚し、友をかばって退学されたのです。卒業の三ヶ月前のことです。菊池寛のよいところは義侠心があることです。直木三十五が貧乏している時、黙って菊池寛が20円くれたことに感謝しています。芥川も菊池寛を評して「兄貴」のようなものだと言っています。芥川が自殺した後、菊池寛は忙しくて、芥川が話がっている様子だったが、相手ができなかったことを悔いています。
映画俳優の志賀暁子が堕胎をして世間に糾弾された時、かばったのは菊池寛です。今はどうかしれませんが、当時の女優は芸者のようなもので、監督や会社の重役に身をまかせないとやっていけなかったのでしょう。女だけが咎を問われて、男に何もないのはおかしいことです。菊池寛は自らも弁護し、なおかつ文藝春秋で志賀暁子の弁護士・鈴木義男にも書かせています。久米正雄が友の映画監督をかばい、志賀暁子を悪く言ったことへの反論です。これには山本有三も絡み、かつて夏目漱石の娘・筆子事件にまつわる関係者がそろったことになります。筆子事件とは、久米正雄が筆子を恋し、山本有三が匿名で久米の女癖の悪いことを文書にしてばらまいたということです。山本有三は志賀暁子をもて遊んだ映画監督「J」を「ステッキを振って自由に街をあるいているではないか」と皮肉りましたが、久米正雄は「J よ、君も、謂わば吾々代表者として、殉教したものに過ぎぬ。ステッキを打ち振り、銀座を平気で歩け!」と書いています。旧怨の復活です。
日本が軍部主導の戦時下になっていく時、菊池寛もはからずもその体制に迎合するようになります。いくら菊池寛が自由主義の持ち主であろうとも、時代の枠を突き抜けることはできません。それか菊池寛はこの抑圧的な体制の中、文学者として沈黙をするよりは、何とかこれらの制限をかいくぐって、表現者としての自分を通したかったのかもしれません。