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明治時代の広島

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明治時代の広島


    私が小学生の頃でも東雲あたりははす畑で、肥溜めがいっぱいありました。明治の初年あたりは広島城を中心にしてそのあたりしか街中はないようで、今の竹屋町も竹屋村となっているので、田んぼか畑かが広がっていたのでしょう。鶴見橋は明治に建てられたそうそうの木造橋の写真が載っていますが、私が小さい頃は穴が開いたりしていて下の川が見えていたものです。その横に夏場になると海水浴場になり、川の中にやぐらも組まれて、そこから飛び込んだりしていました。川べりも家が建て込んでいて、便所は川に突き出ていて、排泄物が直接川に落ちてきていました。私たちはそのへりで泳いでいたのですから、何とも健康な子供たちでしょう。アメリカのポップ歌手マドンナは最近自分の尿を飲む健康療法をしているビデオを流していましたが、我々は何十年前に他人の排泄物を口にしたかもしれないのですから、私は今まあまあ元気なのはそのおかげかもしれません。

明治16年(1883)には細工町に5階建ての料理屋ができていて、牛肉をメインにして商売をしていたようです。今と同じようになんと早い時代の変化でしょう。ちょっと前までは、刀をさした武士がいて、攘夷とかいって騒いでいたのが、とたんに南蛮人が食う牛肉をなべにして食べだしたのですから。

私が高校生くらいまでは宇品線があって蒸気機関車や、後なって電気機関車になりましたが人を運んでいました。広島大学病院の前に駅舎があり、段原方面の線路でよく遊んだものです。悪童は線路の石やら竹を置いて、機関技師に怒られていたものです。この宇品線も明治に作られてものです。

昭和時代に「明治は遠くなりにけり」といっていた人がいましたが、令和の時代、「昭和は遠くなりにけり」と我々昭和生まれは思うことでしょう。

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