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柏井 壽 憂食論 歪みきった日本の食を斬る

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柏井 壽 憂食論 歪みきった日本の食を斬る


     前回にダーウィンの「変われるものだけが生き残れる」というのがありました。柏井が京都料理はこうあるべきだと言っても、食材も人間も変わっていってのですから、彼が考える京都料理なるものも自ずと変わらざるを得なくなっているはずです。柏井の本業は歯科医で、この本の中でも最近の若者の歯はやわらかいものしか食べられない貧弱な歯になっていると言っているように、食もそれらに合わせたものしか出てこないでしょう。私も店の中から外を歩いている若者を見るにつけ、これらは果たして日本人なのかと訝ることが多々あります。慣れ親しんだ胴長短足の御仁は中年以上にしか見られません。女性の足もスラッとして長く、たぶんこれらの若者の腸は短くなっているのだろうと想像されます。かつての典型的な胴長は米や食物繊維を消化するために長くなった腸を収納するためにあったものです。かつて第二次世界大戦で米軍が日本軍陣地の肥溜めの大糞を見て、予想を超える多くの日本兵が山に隠れているのではないかと思ったという話があります。米兵と比較して、日本兵は米や野菜を食べているので消化しきれない植物性繊維が排出されて、米兵もびっくりするほどのものになるのです。ということは米兵は消化のしやすい肉やバターを食べているのですから、出るものは日本人と比較すると、大男の癖にはるかに小さかったのでしょう。戦後70年も経てば、この短い時間でも食べ物が変わると、人間の体型まで変わってしまうということがわかります。

北大路魯山人から続く料理の記述は「通」としての優位性を表していて、料理に対しての薀蓄を垂れています。柏井も系譜を引き継ぐものだという意識でこれを書いているのでしょう。これらは料理屋としての料理であって、日々食べる家庭での料理や定食屋での料理ではなさそうです。はやりとしての料理は廃れることも早いのです。これらに一言設けても次の日にはその店はなくなっていることも多い。いくら言ってもこのようなことでは詮無きことかも知れません。

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