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漱石が死ぬまで住んでいた家は貸し家で、家賃は月35円。敷地は340坪で、今から考えると何と広い庭付きの家なのでしょう。漱石の、縁側で籐椅子に座った写真も残っています。この庭には死んだ猫を埋めて、猫の墓もありました。永井荷風の生家も牛込に1000坪もあり、半分の500坪を子爵入江為守に売ったとあります。後の半分と家もその後売り払ってしまいます。荷風の若い頃、落語家にならんとしたりして、正業につかぬ荷風に落胆した母親が、長男の荷風に相続させたくないと思い、蔵に密かに隠していました。それを荷風が見つけ、もはやこの家には住みたくないと思ったのでしょう。すべてを売り払って、麻布に偏奇館を作ります。ペンキを塗った外観ですから、洒落でそう名前をつけたのです。夏目の、貸家だとはいえ340坪の土地付きの家、荷風の、1000坪の敷地、明治の上流階級は広々とした空間に住んでいたということです。明治維新後大名屋敷がそのまま、時代の新しい覇者に乗って替わったといえましょう。時代が少し下って、寺田寅彦になると、少しは我々に近づいています。が、敷地は「189坪で床面積69坪」とあり、女中部屋もあり、やはり東京帝大の教授にふさわしい家といえましょう。漱石のように貸し家ではなく、土地も家も自分持ちです。現代のマンションのようにセキュリティが厳重ではなく、裏木戸から乞食が入ってきて、お金の無心をしたということを随筆に書いています。
反対に家で苦労したのは石川啄木です。恒産ないものが文学に打ち込むと、悲惨な目に会います。早く死んでよかったかもしれません。