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江戸時代にできた古典落語では現在と風俗も違い、理解しがたいところもあります。とくに「おち」とか「さげ」の意味が解説されないと分からないことが多い。江戸っ子であるということは、ツーカーの世界で、これを言われるとピンとあれを思い浮かべる能力があるということです。そうでないと落語でいつも馬鹿にされる田舎侍になってしまします。現在の我々はほぼ全員田舎侍で、ヤボそのもので、江戸っ子の粋がわからないといえるでしょう。
しかしこの落語的文化構想が明治以降の日本歴史の負の面に寄与しているのかもしれません。何でもかも洒落や暗喩で噺を締め、軽く物事を流して、深く物事を考えない習慣をつけたのではないかと思われます。我々は大本営発表時代、あえて田舎侍にならねばいけなかったのですが、物分りのいい江戸っ子を倣って、表面だけを取り繕うような見方考え方になっていたということです。今一度田舎侍に戻り、何ゆえにおかしいのか、すぐさま結論をつけるのではなく、論理的に考えることが必要だったと思われます。これは単に大本営時代だけではありません。ここ「失われた何十年間」も、福島の原発問題も、シャープや東芝の問題も、これらの舵をとった人々は優秀な大学を出て、物分りのいい頭をしていたかもしれませんが、いまいち田舎侍の物分りの無さ、すなわち時流に流されないで、地に着いて物事を根本的に考えることを軽んじていたと思われて仕方ありません。