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私の相談したいこともこの本に載っています。売り上げの落ちた店主の相談です。それに対して漱石の「名文回答」はこうです。
「余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻が来た。仕舞には看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意思を働かさないうちに、ひとりでに来た」(思ひ出す事など)
根本浩の漱石風の回答ではこうなっています。
「怒鳴っていた我輩には人は集まらなかったが、黙って寝ていると、人は寄ってきた。客だ客だと殺気立っているあなたの店も、怒鳴っている我輩とおなじではないかな。そういう時こそ、ちょっと目をつぶって、のんびり昼寝でもしてみる。客が来ないのなら、その間に、徹底的に掃除をしたり、できる範囲での売り上げアップのアイディアだけを、のんびり考える時間にもつかえるはず」
「思い出す事など」は、「修善寺の大患」で胃潰瘍から出血して、湯治場から東京の胃腸病院に入院した後に書かれたものです。これから5年後に50歳で死んでいます。
「門」を執筆中に大吐血したのですが、傑作を書かないといけないプレッシャーから胃がおかしくなったのでしょう。この「大患」から少しよくなって、俳句やら漢詩を盛んに書いています。これらはべつに雑誌に発表するというわけではなく、自分の心境をえがいたものです。
「たまにはこんな古風な趣がかえって一段の新意を吾らの内面生活上に放射するかもしれない。余は病に因ってこの陳腐な幸福と爛熟の寛裕(くつろぎ)を得て、初めて洋行からから帰って平凡な米の飯に向かった時のような心持がした」
店も同じことです。「殺気」だって傑作をものにしようとした漱石のごとく、このやり方では倒れます。
「病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲り浮かんだ天来の彩文である。吾ともなく興の起こるのがすでに嬉しい。その興を捉えて横に咬み竪に砕いて、これを句なり詩なりに仕立てる順序過程がまた嬉しい」
店主本人が楽しくないと人も集まって来ないということです。カネカネと思いつめてはかえってカネは遠ざかるようです。心に思っていても表面上は「殺気」だつ雰囲気を出さないように心がけようと思いました。