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江戸の下級武士・横山丸三が自分の運の悪さから、「天源術」を学び、それから自ら「開運淘宮術」なるものを考案しました。要点は偏った性格をなおせば、自ずと運は開けるということです。「淘宮」の「淘」は和訓にすると、「よなげる」ということで、「米(よね)上げる」という意味です。米を研いで、ゴミやら籾殻を除けて、きれいにすることです。偏りすぎた性格は糠やゴミみたいなもので、これらを取り除くと、つやつやな米が現れて、それがいい運にくっつきやすくなるということです。別の言い方にすれば、運は光みたいなもので、ゴミや糠にまみれていると、それらにさえぎられて到達できないということのようです。横山丸三とその弟子たちは和歌に託して、「開運淘宮術」を伝承しています。
「人は皆、小天地ゆえ、わが腹の、四季のながめを、見む工夫せよ」
ずーと夏ばかりあってもいけません。春夏秋冬とあるからバランスがとれるのです。
「何事も、丸うて軽く、はずむ毬(まり)、ひいふう三代、いつも正月」
毬のように角がとれていると、心軽やかになるということでしょう。
「天道は、もの言わずして、教ふるを、 見つけぬうちは、常闇のくに」
ゴミが付着した心は天道が見えないということになります。
「今といふ、今にも今が、分かれなり、いつしか今に、消ゆるこの身は」
集中して生きろという意味でしょう。
「見ることも、聞くことも皆、面白し、吾が才覚で、ないと思えば」
自分に何かがあると思うから、おかしくなるので、何もないと思えば、天地のあり方がよくわかるという意味なのでしょう。
「天地のご恩により、人に生まれて、二度と見られぬこの世界の大からくり、天地の大仕掛け、月雪花の早や変わりの大芝居を四季の変わり目に見せていただける。それ故今日の務めを快く為し、楽しんで暮らす。それが天地のお大親様へのお礼、大孝行です」
私はこのトシになってもまだ角が取れない男ですから、いまだに運が廻って来ないのでしょう。毎日はずむ毬を想像して、自分の性格をたわめる事に精を出しましょう。