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花やお茶のように、俳諧も師匠として、門弟を募り、門弟の俳句の添削などをして収入を得ていたということです。芭蕉も「芭門」の「宗匠」として江戸で門下生の寄進や援助で生きながらえていたのです。「宗匠」になれるのは、江戸時代の身分制度が歴然としてあるので、「武士、医家、豪農、豪商、高僧など、上流にかぎられた」ということです。芭蕉も武士の出であるので「宗匠」になれたのですが、路通のように捨て子同然で寺に置きおかれた人はいくら俳句がうまくても「宗匠」にはなれないのです。乞食坊主としてあちらこちら徘徊しているうちに芭蕉と出会い、門弟になりましたが、他の門弟の家で茶筒を盗んだ嫌疑を受けたり、いささか行動に問題があったようです。一貫して芭蕉は路通をかばいましたが、門弟の中には、それに後世の俳諧研究家でも路通を俳諧師として認めないものがいました。これに対して正津勉はフランスの強盗殺人犯であるジャン・ジュネを引き合いに出し、作家は作品で評価すべきで、行動で評価すべきでないと主張しています。
「素性、経歴、品行・・・。などなどの諸点に問題があっても、このようなことは当然のことながら、ことその作品の評価について、まったくいかなる関係もありえない。・・・それこそ人の性であるか、差別として現れるのは、どういうかげんか」
今プロの将棋界ではソフト指しで大問題になっています。棋譜も一個の芸術作品と考えれば、思いつかないような一手が人間ではなく、コンピューターが考え出したということなら、もはや今からはコンピューターが芸術作品を作っていくのではないかと思えてきます。格段に劣るわれわれがそれは芸術作品でないと言えるかどうかはなはだ疑問であります。路通問題とソフト指しの問題は一脈通じるところがあるようです。