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ビートルズが好きだといっても、古賀政男の曲のギターの音が流れ出すと、やはり私は日本人だと感じ入ります。ジャンジャンジャンという大騒音よりも、ピロンピロンと奏でられる前奏で、しんみりとした気持ちになり、「まぼろしの 影を慕いて 雨の日に・・」とくると、おうおう、これは貧しい日本人がビフテキを食えないもので、わびさびにかこつけて、質素な生活をよしとしたもので、人生楽しいことはあまりなく、悲しいことばかりで、自分の思いなど実現するはずがないといった諦念の気持ちを表しているのだと思うと、我々先祖たちの肥え壷を抱えて来た農耕民族としての、辛苦努力の歴史が前面に広がってきて、切ない気持ちになります。
古賀政男と二人の千代子は東洋と西洋の構図であるといってもおかしくない。はやくから父をなくし、貧困ため朝鮮に渡り、兄たちの助力で明治大学予科に入り、マンドリンクラブを創設し、やがて編曲や作曲も手がけるようになります。音楽を正規に学んだことはなく、我流で歌謡曲を作っていきます。二人の千代子はともに東洋音学校(現在の東京音楽大学)の出身です。小林千代子は歌謡界にも入りますが、後にオペラを主にいきています。もう一人の中村千代子は歌謡界からシャンソンのほうへ転進します。二人とも古賀が自分の母をイメージした女性・忍従しどのような愚痴も漏らさないけなげな女性とは違って独立覇気の強い自立する女性だったということです。
結婚したのは中村千代子でしたが、古賀は最初小林千代子の方を好きになり、淡谷のり子に仲介を頼みましたが、小林には「旦那」つまりパトロンが付いていてだめになり、コロンビアレコードの斡旋で中村千代子に代わったということです。中村千代子は裕福な家庭の娘であったので、貧乏育ちの古賀とは合わなかったのでしょう。森進一と大原麗子のようなものです。11ヶ月で別れています。古賀がなぜこの時期結婚を急いでいたかは、この著者の推量では、スランプになって正規の音楽教育を受けていないというコンプレックスから音楽学校を出た才媛と結婚すればその影響を受けて、作風が変わりスランプを脱出できるのではないかと思ったからだそうです。ところが古賀はこの才媛を目の前にすると、手も足も、またパンツも脱げなかったそうです。千代子が自分の母親に古賀が男としての務めを果たさないと言って、嘆いていたということが記されています。また古賀のオカマ説もあり、しばしばオネエ言葉を使う癖がありました。両人とも死んでいますから真相はわかりませんが、私はこれを日本と西欧の対立とみます。三味線一本とオーケストラの対立です。沢庵とチーズの相違です。貧しさの中に小さな喜びを見つける日本の文化に対し、西欧では贅沢のなかに驚愕の快楽を求める西欧の文化の違いです。
戦後古賀は森進一にリバイバル曲の「人生の並木道」を教えていたときのエピソードを披露しています。
「泣くな妹よ、妹よ泣くな、泣けばおさない、二人して、故郷を捨てた、甲斐がない」と歌うところで、森進一は泣きだしてしまったということです。森も母子家庭で九州から集団就職して都会に出ています。古賀と同じような境遇であったのでしょう。たとえ何億円稼いでいても、「高価な時計や指輪をし、金のステッキをつき」歩く一億円と言われていた古賀にとっても、森を見るとかつての自分を見るような気がしていたのでしょう。
成金趣味ぷんぷんのいでたちにたいして古賀はこのように弁解しています。
「いやらしいと思うだろう。しかしこうでもしないと気が紛れないんだ。じっーとダイヤモンドを見ている。・・・淋しいんだよ」