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満州皇帝溥儀の弟溥傑は日本人の嵯峨浩と結婚しました。満州国との緊密な友好を画策する日本政府の思惑で国際結婚がなされたものです。こうした国の政策ははるか以前、紀元前何百年前から中国王朝で行われたものです。「羈縻(きび)政策」といわれるもので、侵入する匈奴を手なずけるために、その首長に「爵位や公主を与え」、なおかつ自国の女性をも与えて、慰撫し、手なずけるための政策です。もっとも有名なものが王昭君です。王昭君の家は貧乏なので、後宮の絵描きに賄賂が払えなかったもので、不美人に描かれてしまいました。前漢の元帝はこの絵描きの絵をもとに毎晩のおとぎの女性を決めていたということで、美人であるのに不美人に描かれた王昭君は元帝のもとに呼ばれませんでした。匈奴である呼韓邪単于が漢との縁戚関係を持ち、貴国の人臣になりたいと申し出たので、後宮のなかで不美人に描かれた王昭君を差し出したのです。ところがいざ元帝が王昭君をまみえて見た時、とてつもない美人なので蛮人に与えることをためらったと書かれています。しかし国同士の約束ですから、仕方なく王昭君を送り出したという史実になっています。この絵描きの名前は毛延寿というのですが、元帝の怒りを怖れて匈奴の地に逃れたという話もあるし、首を切られたという話もあります。匈奴の習慣で、父親が死ぬと、父の嫁や妾は全て息子が引き継ぐというのがありました。呼韓邪単于が死ぬと、王昭君は、義理の息子である復抹累若鞮単芋于の妻にもなっています。
巻末のある年表を見ますと、紀元前300年から紀元後200年頃が匈奴の最盛期で、後にフン族がゴート族を追い散らしてパンノニア平原に依拠したとありますが、これが匈奴の末裔かどうかははっきりしないようです。国、言語、人種というものから歴史を詮索していますが、全てが流動的なものですから、依然として不明瞭な部分が多く、歴史上の問題が尽きません。