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小説を一歳読まないで小説家になりたいという人が多くいるそうです。紙とペン、今ではパソコンがあれば、少ない投資で金と名声が手に入ると思っている節があります。そんなに甘いものではありません。プロ野球界と同じで何億儲けるのはごく一部で大多数は食うのがやっとということです。清水義範自身も海外旅行のパックツアーに参加しても、誰一人彼を物書きだと知っている人はいなかったと言っています。小説など読む人は国民のなかのごく一部で、大半はそのようなものには関心がないのです。有名人になれるとしても、狭い世界でのことで、もはや21世紀は、18世紀19世紀のように世界文学全集に出てくるような文豪の世界ではなくなりつつあります。文学も衰退産業の一つだと考えられています。今では優秀な学生は文学など勉強しません。もっと確実の豊かな生活が送れる理工系に行きます。箸にも棒にもかからないものが文学部に行くのではないでしょうか。それかそれすら行けない者が社会で辛酸をなめて、文学にたどり着くというのもあります。いずれにしても小説を書こうとする人は人生の敗残者であり、そこを足場にして世間を見てみようと試みているのでしょう。まるでニーチェの言うところの、弱いものが強い者の社会に地雷を仕掛け、一発逆転の夢・「価値の転倒」を描いているのかもしれません。テロを企てるものはまだ元気のいいほうで、その元気もなくなり、体制に順応し、出版社が命じる企画の元にせっせと原稿用紙に文字を埋める「器用に成り下がった作家」もいます。自分で言いたいこともなく、社会の需要に合わせ、職人の技を駆使し、世渡り上手な作家も見受けられます。
この本が出来たのは2007年で清水義範が60歳の時です。我々団塊世代が定年を迎え、やがてこれらが作家を目指すだろうと予言しています。それが自分史の盛り上がりや、自主出版の隆盛につながっています。我々の時代は戦争のない時代であり、大いなる悲劇はあまりない世代で、大半が会社に入った、結婚した、子供が生まれた、定年を迎えたで終わるような平凡な人生を過ごしてきています。銃を盗んで人を何人も殺したという永山のような経験をしたのは少数です。もちろん作家になるために人を殺す必要もないのですが、何か物足らなさを感じさせる世代かもしれません。