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「40にして惑わず、50にして天命を知る、60にして耳に順う、70にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず」
実に簡明です。と言っても私はいまだに迷い、天命など知ることもなく、「耳に順う」がどういうこともわからず、70ちかくなっていても、心欲するところは十分従っていますが、「矩を踰えず」ほどの自制心はなさそうです。
清水義範は吉田兼好の徒然草を参考にし、ああでもないこうでもないと言っています。すべからくエッセーなるものは自慢話であって、井上ひさし流に言うとなんて私は頭がいいのだろうかということになるそうです。
モンテーニュのエッセーにも盗賊に襲われたとき、自分の高貴さ対して盗賊たちは恐れをなして解放してくれたということを書いています。(これも自分はいかに多くの本を読んでいるかの自慢だな)
吉田兼好は「世捨て人」だそうで、僧侶ではないが、仏教精神に馴染んだ市井に人ということになります。市井といっても街中ではなく、辺鄙なところで一人寂しく住んで、慰みにこのようなものを書いていたのでしょう。収入はというと田圃を人に貸して得ていたということになっています。今で言うところの定年退職し年金が入って来る独り者といえるのではないでしょうか。
この本で漬水は晩年の友は妻に限るといっていますが、吉田兼好はその点で大いに違っています。このようなことを190段で書いています。
「妻というものは男の持ってはいけないものである。いつまでも独身でいるなどと聞くと、その男性の人柄に深みが感じられる。だからどこそこの婿に入ったとか、また、これこれの女を家に入れて同居しているなどと聞くと、心底幻滅を感じさせられてしまう。どうせ、たいしたこともない女を最高だと舞い上がって、夫婦となったに違いないと、男の態度が安っぽく想像されてくる」
清水先生は妻と海外旅行をしたり料理を楽しんだりしています。他人に女房をどうのこうのと批判する筋合いはたとえエッセーの大御所であってもありません。ましては「たいしたこともない女」というようでは名誉毀損で損害賠償の対象になります。