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読書

渡邉義浩 三国志その後の真実


     「孔明が死んで夜講の入りが落ち」とは江戸時代の川柳ですが、三国志演義では、蜀が魏に攻め滅ぼされ、その魏も、家臣であった司馬懿の子孫に乗って変わられ、魏が西晋に変わり、最後呉も西晋に統合されていくという歴史になっています。孔明が死んだ後、曹操、劉備、張飛、関羽などの個性的な人物がいなくなり、もはや心躍るような場面はなくなります。
2世紀の後半から3世紀にかけての中国大陸における興亡劇です。

まず蜀の劉禅ですが、父親の劉備と違って、覇を唱える気力もなく、263年に魏に降伏して、何とか小さな地位に甘んじ生き伸びています。魏でも曹操から曹丕に受け継がれ、220年には禅譲を受け、後漢が倒れ、曹の皇帝になりましたが、家来の司馬懿が段々と力をつけ、孫である司馬炎が魏帝・曹奐に禅譲させて西晋を作りました。呉はまだありましたが、孫権の孫の孫皓になると、後宮に入り浸って政治をおろそかにし、人心の不評を買い、280年西晋に滅ぼされます。

このような歴史を見ると、栄華は没落の始まりだと気づきます。同時にその栄華や没落もそれら個人の性格だけではなく、時代の大きな流れがあるということに気づきます。渡邉義浩は書いていますが、当時の中国社会は、その地方、地方に大まかに分けて三つの階層にわかれていて、大部分の庶民や農民、その上にその余剰で生きる論語を学んだ「名士」階級と、戦争を専門とする武士階級に分かれるようです。中国には古来、「良い鉄は釘にならず、良い人は兵隊にならない」ということわざがあり、その地その地の「名士」たちは将軍たちを裏では馬鹿にしているのです。特に孫権はその地の名士たちとの調整に頭を悩ましたようです。その点劉備は漢皇帝の血筋であるといっても、ヤクザ上がりであり、「名士」という知識人には礼を持って接するというへりくだった態度があるので、おおむね好感をもたれています。曹操は、漢の宦官の養子で、高い地位の出自で、なおかつ詩作もする文学官僚で、その頃確定しかかった論語政治体制に異議を唱え、詩で持って政治のあり方を変えようとしていたのですから、「名士」の素養も十分ありますが、「名士」の枠から外れた人物でもあり、彼の老獪な精神は「名士」たちを操る能力にもたけていたのです。曹操もこのような高い能力もありましたが、たかが60数年の人間の寿命では、中国全土を統一するということはできませんでした。どの時代においてもその時の趨勢にのるということは至難なわざといえるでしょう。現在、中国、ロシア、アメリカの三大強国があり、その狭間で、日本、韓国、北朝鮮といった、それら三大強国と比べたら劣る三国があり、現在のダブル三国志はどうなることやら!諸葛孔明が日本で生き返ってくれと思うばかりです。

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