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読書

白石昌也 日本をめざしたベトナムの英雄と皇子


        ベトナムももとは漢字文化圏であり、20世紀の最初の頃までまだ科挙の制度があり、ファン・ボイ・チャウも32歳に郷試の試験を通っています。その次の試験が会試、最後の殿試なり、殿試に通ると、皇帝の直属の官吏になれるのです。ファン・ボイ・チャウは神童でしたが、家が貧しく、母が早く死んだので、仕事のできなくなった父や妹二人を養うために、郷試の前の予備試験に通っていたので、儒学の先生をしていました。

日露戦争で、日本がロシアを破ると、ファン・ボイ・チャウは日本から武器を借り入れ、フランスをベトナムから追い出すことを考えます。日本に来て犬養毅にそのことを告げますと、犬飼はまず人材の育成を提案します。それでファン・ボイ・チャウはベトナム維新の会を作り、日本への留学を促す「東遊運動」を開始します。その中に若き皇帝のクオン・デがいて、ファン・ボイ・チャウの考えでは、このクオン・デを中心に置いて立憲君主主義の国を作ろうという構想を描いていました。最終的にはホーチミンがソ連や中国の共産国の支援でベトナムを統一します。日本は満州国の溥儀のようなものとして、クオン・デを利用価値のあるものとして扱っていましたが、大戦に負け、そのような力もなくなりました。たとえ溥儀のように傀儡政権の皇帝になったとしても、あとあと人民裁判にかけられて、晩年つらいものになったでしょう。日本で名も知られないまま亡くなるのも悲しいけれど、老いた身の重労働もつらいものです。

ファン・ボイ・チャウが日本に来て一番感心したのは警察官の親切だそうです。横浜で迷っている時、警察官が旅館の世話もし、鉄道の荷物も送り届けてくれたりしてくれたそうです。ベトナムのフランスに雇われた警察官は、なんやかやと言いがかりをつけて、カネを盗ろうとするとは偉い違いだと、後々「ベトナム亡国史」で書いているそうです。今ベトナムからは若者が研修生として来ているようです。かつてのように親切な日本人が多くいるかどうかは定かではありませんが、日本に悪印象を持たないでいてほしいものです。

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