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福家孝 「死に方」社会格差

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福家孝 「死に方」社会格差


        いつまでも長生きしようと思ってはいけません。「足るを知る」ということを知らねばなりません。この著者の言うところ、75過ぎたらいつ死んでもいいとおもわなければならないのです。延命治療とか、ガンの手術などしてみても意味はないそうです。このようなことをすると、かえって寝たきりになり、回りを煩わせるようになります。それに今からは貧乏人は病院から締め出されます。金持だけが手厚い看護を受けられます。国の財政難から金のない人は面倒見切れないというあからさまの政策が今後ドンドン出てくるでしょう。そのほうがいいのかもしれません。点滴のチューブにつながれてただ横たわるだけの生活よりは、路上で行き倒れるか、アパートで餓死するほうが最後まで自分の意思を持って生きていたということになりましょう。点滴チューブでは自分から死のうと思っても死ねないのです。まるで江戸時代の農民のごとく、生かす殺さずの状態にされて、病院や医師を豊かにさせる材料にされるのです。

人間は死ぬ一週間まえからものを食べなくなり水も飲まなくなり、朦朧と気持ちよさそうに死んでいくそうです。私もそろそろ「死の練習」を開始する必要があります。まず一日断食し、餓死というイメージを掴みます。それか息を吸わないことによって、脳内に炭酸ガスが溜まり、快感物質が放出され、長いトンネルを抜けて、天国に入り口に到着できるかもしれません。これらの練習は一種のヨガのようなものでありますから、かえって長生きするかもしれません。私は「葉隠」にならって、「死の練習」は「生きることと見つけたり」ということを思いつきました。

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