忍者ブログ

読書

竹村公太郎 日本史の謎は地形で解ける

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

竹村公太郎 日本史の謎は地形で解ける


       「忠臣蔵」の話は何ら目新しい話はないと思いましたが、驚愕の真相が隠れていました。徳川幕府そのものがあだ討ちを後押しし、吉良家の殲滅を図ったということです。その根拠は、四十七士の赤穂浪士の内、
16人も江戸城の足下、半蔵門の先の麹町に潜伏しています。半蔵門の先に潜んでいたということは、今で言えば「過激派が警視庁のすぐ裏をアジトにしていた」ということになります。このことは幕府と赤穂浪士は裏では通じていたということになります。吉良家ももともと江戸城近くにありましたが、松の廊下事件後、江戸城から離れた本所に移転を命じられています。まさしく江戸城の近くであだ討ちは具合が悪いので、遠くでやってくれということです。おまけに赤穂浪士が吉良家を襲った後堂々と夜間には締められる木戸を通り抜けて、高輪の泉岳寺に帰っています。町々の木戸は犯罪者の移動を封じ込める役割をしていますが、赤穂浪士が通るたびに木戸が開けられたということは、上からの指令があったということになります。この高輪の泉岳寺は徳川幕府の祖廟であり、赤穂浪士は切腹斬首のあと、この寺に埋葬されました。ということは赤穂浪士たちの振る舞いを公認していたということになります。

徳川が日本の覇者になる前、徳川家と吉良家は愛知県矢作川を挟んで隣同士だったのです。川の利用で昔からもめていました。吉良家は足利から血を引く名門であり、朝廷との太いパイプをもっています。どこの馬の骨ともわからぬ徳川の田舎侍とは違うのです。ところが運よく徳川が天下を取ると、吉良家は「高家」として取り立てられます。かつての「征夷大将軍」の系譜を引く吉良家は徳川にとって利用価値があったのです。吉良家を通して「征夷大将軍」を授かると、すぐに家康は引退し、息子にその地位を譲ります。この称号は徳川の連綿と引き継ぐという慣例を作ったのです。ここまで来ると、もはや吉良家は不用になります。それ以上に、いては具合の悪い存在になりました。ちょうどいい具合に松の廊下事件が起こり、吉良家の取り潰しにかかります。吉良家の嫡男は「父親を守りきれなかった」という理由をつけて流罪、この事件から3年後死んでいます。一方浅野家は復活し、赤穂浪士の息子たちは諸藩に召抱えられることになりました。

PR

コメント

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

カテゴリー

P R