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茶道、華道、剣道、弓道、武士道、芸道、思いついただけでも「道」のつく言葉が見つかります。たかがお茶を飲むだけで、些細な取り決めを踏襲しないといけないというのは何かおかしいのではないのかと思う私はやはり教養が足らないのでしょう。秀吉が利休の庭に朝顔が見事に咲いているというので見たいというと、利休は咲いていた朝顔をすべて刈り取って、茶屋に一輪だけ朝顔を活けて秀吉を迎えたとあります。これが「わび、さび」というものであるといって、秀吉も感心したということになっています。これも私には解せないのです。「わび、さび」も自然らしさを出すということで、意識的な人工的なものを排除するというなら、咲いたものをわざわざ刈り取る必要もなく、咲いたままにしとけばいいのにと思ってしまいます。かえって一輪だけを残すというのはわざとらしいというか、奇をてらっているというか、相手を煙に巻いて面白がっているという風に感じられます。百姓上がりの秀吉もバカにされないために一応感心したフリをしましたが、内心朝顔がいっぱい咲いた派手さを好むというのは育ちの悪い証拠であるということを突きつけられたと思ったことでしょう。成り上がりものがここで怒っては成りあがりを証明することになりますから、ここではグッと自分の気持ちを抑えたのでしょう。聚楽第を建てたくらいの派手好みの秀吉を礼儀正しくちくちくと利休はいじめていたということになります。これが溜まり溜まってとうとう秀吉は利休に切腹を命じたと私は考えます。
どうも日本の「道」のつくものは、いまでいう「ガラパゴス」化ではないかと思われて仕方ありません。世界から切り離されて、他からは理解できないような世界を作り上げたということではないかと思われます。それか盆栽化ともいえるでしょう。大きくなる木を捻じ曲げてコンパクトにまとめ、ミニチュアの世界を、または奇形の世界を作っているということです。この中で満足しているのなら別に害もないかもしれませんが、これを世界に推し進めようとすると、とんでもない摩擦が起こってくることになります。相撲界もいまは少しは落ち着いていますが、日本のやり方を押し付けると、やがて外国人力士の反乱が起こるでしょう。あくまでも「利休」の方針を貫くなら外人など入れないで、日本人だけでやるべきです。双葉山、大鵬は最高だ、だから日本人も最高だと言っておられて、自分のアイデンティティを脅かされることもないでしょう。
1. 無題