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荻原恭男 おくのほそ道

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荻原恭男 おくのほそ道


          徒歩で時速4キロ、8時間歩いておよそ30キロ、10日も歩けば、300キロにもなります。東京まで680キロあるそうですから、25日も歩けば東京に着くことになります。芭蕉も3月の終わりに江戸を出て、東北に行き、裏日本を通って、大垣まで8月の終わりごろ着いています。芭蕉は門弟などの家で何日も逗留したりしていますから、毎日歩いているわけではありません。それにしても当時では老人の部類に見られる芭蕉が5ヶ月もかけて歩き回ったとは驚きです。江戸時代としては歩くことしか移動手段はなかったのですから、日々鍛錬されて、現代人より健脚だったのでしょう。

「松島やああ松島や松島や」は芭蕉の句ではないそうです。「松島やさてまつしまや松島や」という句は相洲田原坊の作だということになっています。芭蕉が松島で作った句は、「島々や千々にくだけて夏の海」です。

旅の途中で「かさね」という童女にも会って、同伴者の曾良がこのような句を残しています。

「かさねとは八重撫子の名成るべし」

また旅籠で遊女と隣部屋になったこともあります。翌日遊女二人に一緒に旅をしてくれと頼まれましたが、「不便の事には侍れどもわれわれは所々にて留まる方おほし。只人の行にまかせて行くべし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と断っています。

「一家に遊女もねたり萩と月」

このときのことを曾良が句にしています。

曾良は途中で胃病でダウンし、芭蕉に同行できなくなりました。しかし最終地・大垣で再び芭蕉と再会しています。奥の細道最後の句は、「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」で、曾良と路通を伴い伊勢に向かって行きます。

その後、元禄7年、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と詠んで、大阪の地で亡くなっています。

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