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菊池姓は東京にも、九州にも、高松にもいます。武将であり、大名についてあちらこちらと鞍替えしたのでしょう。菊池寛は高松の出身で、先祖は高松藩の儒生でありました。寛の父親は小学校の庶務係で、貧乏のため寛は東京師範学校に入学したが、「放縦不羈」で除籍され、明治、早稲田などにいてやがて第一高等学校に、それから東京大学へと行きます。ところが卒業三か月前マント盗難事件で友をかばい、自分が責を負って退学します。京都大学を受験し入学し卒業したのは28歳の時です。時事新報社に入社し、「文学士」様ですから初任給も社で最高の79円ももらっています。高松から富貴の娘と結婚し、文学で飯を食う自信がついたので、独立し、文藝春秋社を起こし、編集後記的なものの「話の屑籠」で当時の世相・事件などの感想を書き留めています。心臓が悪く50歳までしか生きられないだろうと言っていましたが、敗戦後の昭和23年に60歳で亡くなっています。戦前では彼は中道右派の態度をとり、左翼の過激な思想には染まらないで、改革も穏便になすことを希望し、コチコチの右翼の、天皇を持ち出して相手を黙らす勢力には苦々しい思いを表明しています。しかし太平洋戦争がはじまると、文学者を組織し、自らも戦地に行って兵士たちを鼓舞し、帰って戦地の記事を書き、挙国一致の精神を説いています。それによって戦後はパージを受け、文藝春秋社も解散してしまいます。