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藤沢たかしの先祖はシーボルトと関係があり、蘭学者だそうです。父はアメリカの大学を出て、日清戦争では通訳官を務め、植民地になった台湾に行き、製糖業を始め、成功します。藤沢たかしは大正6年生まれで、暁月小学校に入り、そこでフランス語を習います。旧制静岡高校分科丙類(フランス語科)、京大の経済学部と進みます。卒業して三井炭鉱付属の化学工場勤務、それから徴兵を受けて中国大陸に、敗戦から日本に戻り、元の会社に戻ります。50歳になり代議士の引き合いで拓殖大学の事務員になります。男も50台、更年期があるといわれるように、ふっと立ち止まって考え込む時期があるのでしょう。それを「中年クライシス」という人もいます。家族のために一生懸命働いてきたあと、子供たちもそれなりに目鼻が立ち、もう一度自分自身を振り返ると、そこには青春時代自分が思い描いたものと現実の齟齬に気づき、果たしてこのまま人生を終えてもいいものかと考えるのでしょう。藤沢たかしにとってそれはフランス語であったということです。50過ぎて、次男が山で転落死し、彼自身も直腸がんになり、人工肛門をつけるようになります。生命には期限があると知ると、ますます、なされてないものをそのままにして死ぬことを耐えがたく思われてきます。それで藤沢たかしはパリ大学に留学したのです。単に箔をつけるために留学したのではありません。やむにやまれぬ自己確認の衝動であると思われます。昔の人は大概50歳前後で死んでいたのですから、青春の再現の噴出は起こらなかったのですが、80歳まで寿命が延びると、そのような気持ちにでもなるのでしょう。