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私も悟りを得て大往生したいと思っています。ある言葉をヒントにして大悟しようと思って、この本を読みましたが、この本の中で大悟した人のようには大悟できなくて、かえってわけのわからない状態になっています。瞑想も単なる睡眠と思っている私のような人間には大悟は無理なのかもしれません。「南泉斬猫」では、趙洲がはいていた草履を頭に載せたら、猫を斬らずにすんだであろうということですが、どうしてそうなるかわかりません。師匠のまねをして、「仏法の肝要」を問われると、指を一本立てていた小僧が師匠からその指を切られ、泣く泣く逃げて振り返ると師匠が指を一本立てていたのを見、一瞬のうちにこの小僧は大悟したとあります。これもひどい話ではあります。最近東京の老舗の料理店の店主が従業員を生意気だといって蹴り上げて逮捕されていますが、それ以上にこの師匠は弟子を不具者にしたのですから実刑をまぬがれないでしょう。簾の上げ下げでいいの悪いのといわれています。このようなささいなことはどうでもいいことではないかと私は考えますが、禅的世界ではこのような些細なことのなかに大悟の萌芽をみつけるのかもしれません。