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子規と侠客の清水次郎長とのつながりがあったというのは驚きです。間接的ですが、次郎長の養子であった天田五郎・後の愚庵と俳諧仲間だったのです。この天田五郎は「東海遊侠伝」を書いていて、これによって次郎長が有名になったということです。京都の愚庵の庭に生えていた柿の実を子規に贈ったとき、子規はお礼の俳句を作っています。
「御仏に供へあまりの柿十五」
「柿熟す愚庵に猿も弟子もなし」
「つりがねの帯のところが渋かりき」
日本ほど、句会のように人々が集まって文藝を楽しむという国は他にはないかもしれません。また新聞や雑誌に毎日何万もの俳句が投稿されていることでしょう。私だって作ろうと思えば作れる気がします。
「柿食った記憶もなしこぞの秋」
「屁をひって炬燵の中の懐かしさ」
私の場合俳味の少ない句といえるでしょう。
子規が静岡県の興津に養生移転しようとしたときがありました。かないませんでしたが、子規はこのような俳句を残しています。
「月の秋興津の借家尋ねけり」
このことで、加藤孫平に出した子規の手紙に中で「野菜」か「野菊」か、どう判別するかの問題があるようです。崩し文字ですから判別するのが難しいのでしょう。文学的には「野菊」のほうがいいように思われますが、子規の自筆から講談社の全集では「野菜」に書き換えられていると書いてあります。