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シュペングラーはアリストテレス、カント、ベーコンなどのような体系的な哲学ではなく、ソクラテス、ショウペンハウエル、ニーチェのどのようなインスピレーションの哲学なのでしょう。世界をひとつの系で記述するというのは土台無理なことですから、科学が発達するとアリストテレスの分類学も笑えるところが出てきます。哲学はいかに生きるべきか、いかにし死ぬべきかを問う学問であると思われます。だからそのことについて思うところがあれば、誰もが哲学者になれるのです。
「運命 歴史 政治」はシュペングラーが書き散らしたもののなかからの抜粋だそうです。
「不自然な本来の思考の始まりは、人間が、なにごとかを行なう代わりに、座につく、座る時、すなわち考えるために内臓を圧迫する時である。自然人は、歩いたり、待ち伏せたり、夜になって横になり休みながら、なにごとかを行い手を休めつつ考える。だから腰掛思考は・・・」
ニーチェも同じようなことを言っていたと記憶します。
「根底に置いて合理主義は、批評以外何物ではなく、批評家は創造者と対立するものである。彼は分析し、つなぎあわせる。受胎と生誕は彼にとって無縁のものである。それ故、彼の作品は人為的なものであって生命が無く、現実生活と出会うや死文と化す」
一見まともなことを言っているように見えるテレビに出るコメンテイターもただ「死文」を唱えているだけかもしれません。
「憎むことを知らざるものは男子ではない。歴史は男子によってつくられる。彼らの下す決断は秋霜烈日である。理解と和解によって避け得ると卑しく信じる者は、政治に適せざる者である」
三国干渉で日本はロシアを憎み、臥薪嘗胆して日露戦争でロシアを負かした。このころだったら三島由紀夫も生きていけただろう。第二次世界大戦で、ロシアに裏切られ、アメリカからは原爆を落とされた。戦後、「理解と和解」などといっていた腑抜けた男子を見ると三島由紀夫も生きる気力を失ったかもしれない。
「貴族は、強力な種の表現として、真に政治的な身分である。そして本来の政治的教育法とは、躾であって教養ではない。どの偉大な政治家も、事象の流れのおける中心力として、その使命感と心の義務感のなかに貴族的なるものを蔵している」
受験エリートが政治家になってもビスマルクにはなれないということでしょう。
「健全な人間は、距りが当然であることを本能的に感受する」
将棋などをしてみて、この人には手も足も出ないなということがよくわかります。
三輪一法さんは1933年広島生まれ、県職員59歳まで勤め、退職後福祉施設長などをしています。この本の出版が2006年、73歳の時であり、今も生きているのなら87歳になっています。
キャップテン・クックが来たころが、ハワイの人口は30万人といわれ、統計が取られ始められた1884年では4万人に減っています。アメリカ大陸と同じように西洋人が病原菌を運んできて、それによって免疫性の無いハワイヤンたちが多く死んだのでしょう。おまけにカメハメハ大王の時代、それまでは弓や槍くらいの武器しかないので戦争しても大して死ななかったのですが、西洋人の侵入とともに銃が入ってきて、大量に死んでしまうような事態になったのです。それがまた人口減少に拍車をかけたのでしょう。カメハメハ大王は正妻がいたのですが、子供が生まれなく、正妻の同意のもとで、殺した敵対の王の娘と結婚します。その子供らでカメハメハ大王の系統は数代続きますが、やがて絶え、血のつながらない王になります。カラカウア王は世界一周の旅の折日本にも立ち寄り、カイウラニ王女と日本の皇族との結婚を明治政府に提案しましたが実現できませんでした。サトウキビ耕作の日本人移民は話がまとまり、それ以降ドッと日本人はハワイに移住します。カラカウア王が死に、妹リリウオカラニが女王として引き継いだ時、アメリカ系白人たちがこの女王を倒し、ハワイをアメリカの植民地にします。100年後の1993年クリントン大統領はアメリカの軍隊が関与したことを謝罪しています。
少子化で日本もあと100年もすると民族そのものが消滅するのではないかといわれています。ハワイ王朝も中国の清王朝も瓦解したのは西洋列国の介入もありますが、それ以上に支配層と一般人民との格差が広がりすぎて、求心力が無くなり、もうこのような政権は倒れても仕方ないと思う人が多くなったことです。日本で子供が育てにくいということは、富の偏在が大きすぎることです。もはや日本もこの国の指導者たちに期待する気持ちをもっていないようです。飢えて死ぬ女性もいるのに、高給な店でステーキを食っている場合ではないのです。このような危機感のないことをしているから、「日本は死んでしまえ」と日本人女性自身から言われてしまうのです。
大まかに言って、古代人たちが都市を作り、ライオンや豹などに襲われることなく夜空を見ることができるようになり、星についての知識がたかまる。天文学の始まりだ。それからそれらの星と王などの運命とを結びつける神官が出てくる。これが占星術。ルネサンスまでは天文学と占星術は何とか共存してきた。ガリレオなどが出てきて、天文学は科学になり、占星術は擬科学になり、たもとが分かれ、現在の状態になっている。アメリカの大方の新聞にはホロスコープの欄があり、科学者たちから無意味だからやめろと言われても、需要があるので相変わらず載せている。日本のテレビでも占いコーナーもあり、やめる気配もない。皆々が信じているわけでもないのに、このようなことが続いているのはどうしてなのか?それは科学で満たされないものが人間の心にはあるということだ。この辺の事情を中山茂はこのように説明しています。
「昔から、ある人の心の不安を減少させることに占星術は貢献してきた。その現代の情報社会での役割は、未知の不安を減らし、不確実の未来を減らし、さまざまな選択肢の中から迷わず決断することを助けるための、情報収集手段のひとつだと考えられるのである」
経済学のように未来を予測する学問もあるが、ほとんど当たっていないようである。処理する変数が多すぎて、最後には無限大になり、カオスに落ちるのでしょう。我々普通人の脳は単純化して考える方が収まりやすい。占星術のように太陽と数個の惑星の配置で考える方がまとまりやすく、早く決断もつこうというものです。
2025年我々団塊世代が75過ぎ後期高齢者になるときです。75過ぎるとどこか体がおかしくなっているか、頭の方もだいぶん劣化しているでしょう。病気で入院でもすると一挙に今以上に下層化します。朝日新聞の社員などは年収2000万円くらいあるのですから年金も十分生活できるほどあるでしょう。いたれりつくせりの高級老人ホームに入ることもできます。ところが国民年金の場合、満額かけても年に100万円以上にはなりません。この本の冒頭に出てくるような、民家を借り切って、ベットを並べ、ベットの横には簡易トイレを置き、糞尿の臭いが漂うようなところに押し込まれるようです。それでも費用は10万円くらいするのです。姨捨山、おじ捨て山は架空の話ではありません。日本での長生きはこの本のタイトルどおり地獄なのです。この地獄を金儲けの場と考える鬼のような人もいます。「特養」の理事になり、相場より高い値段で身内の会社から納品させて懐を太らせるとか、市長の権限により身内に「特養」の許可を与え、国からの建設協力金5億円を得るとか、このようなところに天下りで入ってきて、何年か後高額の退職金を得て逃げ去るとか、彼らにとって老人は新鮮な鯛の刺身のようにおいしそうに思われることでしょう。