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西洋の王は日本の大名とは違って直属の常備軍を持たなかったということです。戦争のたびごとに傭兵を雇ってカネを払っていたということです。だから日本のように「恩義」とか「忠義」といったものはありません。カネの切れ目が縁の切れ目ということで、芸者と客、妾と旦那のような関係であったのでしょう。スイスなど傭兵でフランスなどに行っていましたが、山奥で大した産業が無いものですから、出稼ぎに傭兵をしていたということです。アメリカ軍は日本の傭兵なのかという問題について考えてみると、はじめは日本の軍国主義復活を恐れて、この監視役をアメリカ占領軍がしていました。ところが共産圏が進展して、朝鮮半島に迫ると、日本に自衛隊を作くらせ、防共の歯止めにしようとそます。時を経て、アメリカの財政が悪くなると日本にアメリカ軍の日本駐留費用を捻出させます。始めは日本の力を削ぐための駐留であったものが、現在では建前上共同で共産国に対抗しようとしています。そうであるならもうそろそろ治外法権的なことは止めてもらいたいものであります。日本で法を犯すアメリカ軍人や軍属には日本の法律でちゃんと取り締まった欲しいものであります。
中世の西洋の王は戦争が終われば、喉もと過ぎれば熱さを忘れるではないですが、給金をしぶることが多かったといいます。しかし現代の戦争は核ですから、喉もと過ぎないでも瞬時に蒸発するのですから、戦争もできない状態です。そうかといってバランスを崩すと、また戦争になりやすい。仕方なく年々軍事費の予算を増やしていかないといけないのでしょう。中国とアメリカの狭間にあって、うろうろしているのが日本と韓国なのでしょう。へたに「侠」などをさらけ出すと、バランスが崩れるので、大見得をきって派手なパホーマンスをしないことにかぎります。
隋代から始まった科挙1300年を経て清朝時代で終わりになりました。四書五経を丸暗記し、詩と美文を作る能力で受かるという受験システムが20世紀には通用しなくなったということです。日本も遅ればせながら1887年(明治20年)から高等文官試験をはじめました。科挙を真似たものですが、130年間たって、やはりいろいろな問題が出てきているようです。期間としては中国の十分の一に過ぎませんが、日本の現在の衰退の原因の一つにこの受験システムが問題ではなかろうかという話もあります。テレビでも東大クイズ王とか、出版界では「東大式歴史・・」とかという本が出たり、現役の東大生が書いた東大に受かる方法とかという本が良く売れているそうです。科挙に受かって進士でもなると、孫の代まで裕福に暮らせる財産が手に入ったそうです。日本でも東大を出て高文に受かれば我が世の春となります。
明代に張溥という人がいて、科挙進士合格者であり、科挙合格のための美文制作の指南者であったのです。まるで現在の日本の「河合塾」のようなものを作った人です。塾が大きくなりすぎて閥ができ中央政界まで動かすような力を持ちます。張溥の解答を学んで科挙に受かるのですから、同じような考え方をする人間が多くなります。多様性が無くなり、同じ階層の子弟が寄り集まり、それも二世三世となり、純粋性が高まり、ブリーダーされたイヌのように免疫性がなくなります。ブリーダーされたイヌがエリートになればやがて国は衰退するでしょう。プーチンや習近平のヤクザのような政治家と面前して、たぢろかない人はこのようなブリーダーエリートからはでてきません。せいぜい美文で以て自分のセコイ法的違反を隠すだけです。
明智光秀から石原莞爾まで近世、近代までの日本史で重要な27人の簡単な履歴か素描を書いています。それも「侠」に関わる人で、大石の説明のよるとこうなります。
「社会の指導者であっても、逆に社会を外れたアウトローであっても、その時代の体系や秩序に矛盾・限界を感じ、新しい秩序や枠組みを生み出す役割を果たしたり、弱者を救い強者を正すなどの役割を果たした人々である」
高山右近、キリシタン大名、江戸幕府からところ払いになり、長崎、それから家族でマニラに移住します。それも60歳のときです。マニラに渡ってたった40日で熱病で亡くなっています。家族はその後どうなったのでしょうか?誰も知り合いのいないところで信仰だけで生きていけるのでしょうか、私などとてもそのようなことはできません。
忠臣蔵の大石内蔵助は「預置候金銀請払帳」という会計簿を残しています。それによると、討ち入りまでの1年9ヶ月間の費用が697両(1両12万として8292万)もかかったそうです。47士の生活費に振り分けたのでしょう。1年と9ヶ月の間よくもこのような少ない金額ですごしたものです。あっぱれだといいたいところですが、浅野匠頭長矩のような切れやすい殿様をもったということがそもそも不幸の始まりです。
今も日々歴史は形つくられていますが、大方が忘却の彼方に遠ざかります。そのなかで燦然と名が残っているということはその人がいいも悪いも普通の人とは断然と違っているからでしょう。
1895年朝鮮王妃閔氏殺害も1927年張作霖爆殺事件も日本の外交の性格が出ていると朴宗根は言っています。
「日本政府と朝鮮、中国の現地出先機関のあいだで、侵略の基本方針では同一でありながら、時期や方法をめぐる意見の相違から、出先機関が政府の事前の承認を得ることなく独断的に侵略事件を起こすことがしばしばあった」
朝鮮公使三浦梧楼と日本軍隊と朝鮮にやってきた日本人の商売人や浪人とらが宮城に入って王妃閔氏を殺害したというものです。王妃閔氏と敵対する舅、高宗の父親を強制的に担ぎ出し、クーデターであるかのように装い、日本人に朝鮮服を着させ、朝鮮人同士の争いというようなみえみえの小細工をしています。日本政府も欧米各国の批判をかわすために広島で三浦梧楼以下関係者の裁判を開きますが、結局全員無罪にしてしまいます。
日清戦争で勝ちましたが、三国干渉を受け、一時的に日本は朝鮮から引きます。王妃閔氏殺害で朝鮮人の人々の日本人に対する憎悪が決定的になったことです。それまででも勝手に朝鮮領内に電信線を引いたり、日本の商売人は懐に刀をしのばせ、朝鮮人が値引きを要求したりすると切り付けたというエピソードも載せています。
日本では朝鮮を中国の清から独立させるために工作し、借款も与えて以前より豊かになったのではないかと言う日本人もいますが、朝鮮人にとってはこのような親切などいらんということなのでしょう。
これは2週間前に読んでいます。ボケが始まっているのでしょうか。同じようなことを書いているなと思いつつ最後まで読みました。前回は将棋に纏わる中国の歴史のことをブログにあげています。
今回は中国人の「時間」に対する思考についてです。1年は春夏秋冬と4季に分かれます。これが「起、承、転、結」となると宮崎一定は言っています。弁証法では「正、反、合」で、「承」にあたるものがありません。中国の歴史を見ると、弁証法よりは、「起、承、転、結」のほうがあたっているようです。ある王様が政権を建て、つまり起、それから驕り高ぶり女狂いをし、つまり承、それに対して反対者が起こり、つまり転、最後に王様が殺され新しい王様が出現する、つまり結ということです。
1979年出版のこの岩波新書の値段は320円と記されています。この40年間で3倍近く上がっています。世の中いつの間にか変わっていくということがよくわかります。このコロナウィルスも過剰になた人間の淘汰をすすめ、適当な規模まで抑える天の配慮かもしれません。