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江戸末期の浮世絵師たちの研究書かと思いましたが、小説でした。「国芳一門明治浮世絵草紙」と副題にあります。絵師たちの仕事は浮世絵を描くばかりではありません。明治になると、看板、人形、うちわ、袋、カードなどに絵を描いたりしています。西洋のポンチ絵にならって、風刺漫画などを出版したりしています。国芳には娘が二人いて、ともに絵描きになっています。姉は早世し、妹は昭和13年まで生きていて、97歳で亡くなったとこの本では書かれています。妹には子はいませんが、姉には鉄火場の親分との間に子供ができ、親分は再々刑務所に入っていたので、彼の兄の家に引き取られました。姉は子供を産むと早々に亡くなってしまいます。肺病病みであったのです。国芳の唯一の孫は後に新聞記者になっています。最後には自分でもポンチ絵雑誌を作り、身上を潰して明治42年に亡くなっています。
現在あることは江戸にもあったということがわかります。男と女は相変わらず同じようなことをやっています。ただし少し違うところは身分制度があって、例えば殺人にしても、身分の高いものが行うと、あやふやにされてお咎めなしということが江戸時代にはあったということです。とはいえ、現在でもいい弁護士をつければ、殺人を犯しても刑を軽くすることができるので、現在では裕福なものが身分の高いものと言われるでしょう。江戸時代でも身分が高くない者でも役人にカネをばらまくと、罪が軽くなったということもありますから、実際のところ、あまり変わりがないといえそうです。しいて言えば江戸時代には、捜査役人にはアンタッチャブルな身分の高さがあったということです。たとえば土佐藩の正妻は殿様が手を付けた女中を殺したのですが、この正妻は土佐藩主の娘であり、彼女の夫は養子で、プライドの高いお嬢様なのです。この女中の親元には金銭を渡したかもしれませんが、お嬢様には一切の刑罰はなしです。
ヤクザが隆盛を極めた1963年に、ヤクザの連合が政治家に対して警告文を送ったことで、政治家の怒りを買い、翌年から「頂上作戦」といわれるヤクザの締め付けが始まりました。それからバブル時期の、ヤクザの「民間分野へのシノギの拡大」で「債権取り立て、倒産整理、競売妨害、不動産地上げ、公共工事のまえさばき、入札談合の仕切り、公共工事への参入強要、企業対象暴力、交通事故次弾介入等々経済活動の収入源」が広がったことで、1992年暴対法が作られます。これによってヤクザはマフィア化します。表に出て来なくなり、陰で蠢く存在になりました。現在に横行している宝石店や時計店を襲う強盗事件も裏では暴力団が操っているのでしょう。実行犯やそれを指示する半グレも、大本では暴力団員が仕切っていると思われます。昭和の時代までは、「弱きを助け強きをくじく」、(実際はそうではなかったのですが)、ヤクザを許容するところもありました。賭博、覚醒剤くらいなどでは仕方ないかと思われますが、普通の商行為に対して暴力で捻じ曲げて暴利をむさぼりだしたら、もはや黙っていることはできません。暴力団員の数は減っているようです。学歴弱者、家庭弱者など青少年時代問題を起こす子らにとって暴力団は「セーフネット」の役を果たしていたのですが、ヤクザでは食えないとなると、彼らはどのようにすればいいのでしょうか?
2004年に廃刊した雑誌「噂の真相」スキャンダル記事のオンパレードでした。編集長の岡留安則は2019年に71歳で亡くなっています。親元が捜索されたということで泣くような、今捕まっているガーシーのヤワどころではありません。右翼が来て事務所がめちゃめちゃにされ、ケガを負ったこともありました。明治にも黒岩涙香が万朝報という新聞を作り、スキャンダル専門の紙面づくりをしています。相馬家の御家騒動、新興宗教攻撃、有名人無名人に関わらず、妾を何人いてどこに住まわしているかの詳細な記事を載せています。有名なところでは森鴎外、犬飼毅。奥武則によりますと、江戸時代には藩の中での自分であったが、明治になると日本国での自分ということで、大いに意識が拡大したということです。妾の記事でも、欧米と比べて、果たして婦女をこのような状態にしていてはいいのかという国際性も見られます。
唐澤貴洋の弟で、地元の悪ガキにリンチされ、その日に自宅で自殺してしまいました。リンチした悪ガキは逮捕もされないで、その後のうのうと生きているということを知ると兄貴として許せない気持ちになり、それが弁護士になろうという気にさせたのでしょう。2チャンネルの書き込みを唐澤貴洋が批判すると、「100万回」もの「殺人予告」が来たそうです。やっとのことで犯人を見つけると、ひ弱な高校生であったり、20代でも030代でも社会で満たされていない弱者が多いのです。彼らは自分の鬱憤をインターネットで流し、一時の優越感を感じがっているようです。社会からつまはじきされているように思うから、社会で成功した人物を貶めることで、自分の精神の平衡感覚を保っているように感じられます。なんとも退行的な精神でしょうか。社会に不満なら、唐澤貴洋のように夜間高校から慶応を卒業、早稲田のロースクールに入り弁護士資格を得るといった努力をすべきだろうと思います。弁護士になるのは困難ですが、ぶつぶつ文句を言う時間があれば、もっとましなものを身に着けることに専念したほうがよっぽどいい。