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美能幸三の言うところ、打越組も山村組の親分も、その器でないものが親分になっていて、その下の子分たちが右往左往したというのが「仁義なき戦いの真実」だということだそうです。ヤクザだけの問題だけではなく、会社にも国家にも、器量のないものがリーダーになると、まとまることがまとまらなくなるということです。
現在のように批判が自由にできるところでは、たとえ器があっても、リーダーを持続させることは至難の業です。習近平やプーチンのように、監視社会を作り恐怖政治を敷くとある程度、ある程度これらの批判は抑えることができるかもしれませんが、日本の戦前のように治安維持法で締め付けていると、最後には破局が来るということになります。打越組も山村組の親分のように器がなさすぎるのも問題ですが、習近平やプーチンのように器がありすぎても問題です。批判されないリーダーは唯我独尊になりやすく、大きな間違いをしやすくなります。国家のかじ取りをするエリートには、絶えず批判をして、鍛えないとすぐ堕落してしまうということを肝に銘じておくべきです。
このタイトルの意味は、ヤクザの商売にうまみがあって辞められないといったことではなく、ヤクザを辞めても、銀行口座はつくれない、人並みの生活ができないということで、ヤクザをし続けるしかないということです。暴対法ができて、暴力団の代紋の意味がなくなりました。代紋でもかざしたら即逮捕されます。手下が行った殺人事件も親分が死刑判決を食らうことだってありうるのです。現在このような状況下で、暴力団を辞めたふりをしたヤクザが警察がまだ把握していない「半グレ」とつるんで、または「半グレ」を利用して、覚醒剤販売、オレオレ詐欺や強盗などしているのです。
「暴力団が半グレをグリップしてマフィア化し、暴力団離脱者から元暴力団アウトローが増殖して半グレと混ざり、表立って身動きできない暴力団の裏をかく新手のシノギを半グレが繰り出す」
ヤクザも半グレも基本的には貧困です。幼少期からの貧困のために我慢というしつけがなされていないことが原因かと思われます。手っ取り早く欲しいものを手に入れるという習性が、積もりに積もって安易な金もうけに走るのです。そういう環境下で育てられた子供には罪はないといえますが、だれかそれを諫める大人がいないものかと残念で仕方ありません。親も放棄している子育てに、赤の他人がどうのこうのと言えることもないし、また日本全体が他人に対しては無関心になっているのをみると、少子化以上に日本の将来はどうなるか心配です。
私も孤独死死亡の候補ですが、せめても2,3日くらいには見つけてほしいものです。一か月の死体が放置されると、ドロドロになり、ハエや蛆虫が密集し、肉体の溶けた液が畳を通して構造物に付着すると、何とも言えない悪臭が張り付き、その悪臭をとるためには、その構造物を削らないといけなくなります。単なるリホームでは済まなくなります。自分の家では仕方ありませんが、借りている家では仕方ないとは言えなくなります。孤独死が増える現状では、家主とそのお死亡された人の縁者との間でその費用の負担で大もめになります。2010年の地点で、このリホーム代が70万円とか言っていますので、今では100万を超え、へたをすると200万円まで行くのではないかと思われます。世の中いろいろな仕事がありますが、最も嫌がれる仕事こそ、最も感謝される仕事だ言うことがよくわかります。
国民全体が知るといった歌謡曲がなくなったのは平成に入ってからです。レコード大賞というものはいまでもあるのでしょうか?テレビでも歌番組はあるのでしょうか?最近これといったはやる曲など聞いたことがありません。その点昭和は、男も女も御三家、新御三家、新新御三家と出て、演歌歌手の真っ盛りでした。こうまで歌謡曲が廃れた原因を考えてみると、中間層の没落にあるといえるでしょう。自分は中間層だという幻想の崩壊です。非正規雇用の現実を目の前にしては、能天気に歌謡曲など歌っている場合ではありません。自分の食い扶持まで怪しいのに、結婚して子供を持つなど、夢の、また夢。「雨雨ふれふれ・・・」と歌っていたら、雨で仕事がなくなり、ネットカフェに泊まれなくなったりします。歌手たちも歌だけではもうからないので、この八代亜紀のように画伯になって絵を売って稼いでいます。加山雄三もこの本の著者に絵の描き方を教わり、早々個展を開いて金儲けをしています。ほかに才能のない歌手は全国をドサ回りして、何とか息をつないでいるのでしょう。なんとも夢のない国になりました。
京都の貴族のドラ息子が関東で無茶をしでかして、婚家の男兄弟から毒を飲まされ、「六根片端」(聾啞者、足なえ)なります。土車に載せられ、伊勢の温泉につかれば治るのだということで、関東から伊勢までこの土車でいきます。この土車を引っ張ることで仏法の果報に預かれるということで、各地の人々が協力します。やがて温泉に入り、元の立派な若者に生まれ変わります。結婚した娘も川に沈められて殺される予定でしたが、命じられた兄弟はそのまま川に流します。それが人買いの老婆に見つけられ、名古屋方面の女郎として売られますが、男を抱くような仕事はしたくないということで、水を運ぶ重労働をさせられます。その宿場に土車が来て、元の亭主だとわからずに、5日間の休暇をもらって、この土車を引っ張ります。やがて若者がよみがえって復讐譚になっていくのです。これが説教節のあらましです。この説教節を唱えるものが河原乞食と言われる芸能集団です。現在の芸能人には年収何億と稼ぐ人もいますが、河原乞食といわれるくらいですから、中世の芸能人は食うや食わずの生活をしていたのでしょう。この説教節や山椒大夫を見てもわかるように、人買いに売られた奴隷の生活は悲惨です。山椒大夫では役に立たないとわかれば、足の筋を切られ、田畑の雀を追い払う人間かかしになってしまいます。日本人は優しい人間だと思いがっていますが、これらの話を聞くと、綿花畑で黒人を酷使するアメリカ人とそう変わりはないようです。