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火山列島である日本は古来地震や津波の記録が残されています。富士山が大噴火したのはたかが300年前です。はじめオドオドロしい空砲のような音が鳴り響き、やがて昼頃から灰が降り始めます。その灰で3,4時ごろには太陽が見えなくなり夜のように暗くなったそうです。今富士山が大爆発したら東京はどうなるでしょうか?この降灰がビルなどの空調機器に入り込み冷暖房がきかなくなります。発電所の機械も故障し、タワーマンションの最上階には上がれなくなります。自動車だってキャブレターが詰まって動かなくなります。ビルは倒れないと言っていますが、揺れ方によっては「想定外」のことも起こるのではないと思われます。津波のよく起こる高知県では、井戸の水が枯れたら、地震や津波が来るという言い伝えがあります。強振が来たら何をおいても海辺の人は高みを目指して逃げないといけません。命あってのもの種です。
1939年、この年は何とかドイツから脱出できる最後の年だろうと思われます。この機を逃してドイツに留まったユダヤ人はほとんど強制収容所送りです。ユダヤ人に対する暴力は当たり前になり、ドイツで貴族でもあったベーコンの父でもゲシュタポに捉われてひどい暴力を受けています。ナチスの幹部にわいろを渡してイタリアから中国へ出国します。途中で荷物検査を受けます。もし宝石や金など持ち出そうとしたら即刻強制所送りです。駅駅でそういう検査があり、ドイツに送り返される人も多い。肛門や生殖器の中まで調べるのです。10代の少女には耐え難いものだったでしょう。やがて上海に着きます。家で雇っていた子守の女性に宝石を託しイギリスの親戚にあずけてもらって、それを航行中の船に送ってもらう算段をしていましたが、中身はガラス玉や釘のような物ばかりです。ナチスの時代恩義があってもユダヤ人ならその恩義に背いても問題はないと思う人も多いのでしょう。上海に着いたときから物々交換生活になります。もちろんユダヤ人同士の助け合いもあります。とはいっても、今まで貴族の生活をし、きれいなところに住んでいたのに、今や上海の路地裏、夏の間ゴミは饐え、赤ちゃんの死んだ死体やまだ生きている赤ちゃんもゴミの中に埋もれている。水洗トイレなどなく、瓶があって、それを毎朝肥取が取りに来て、その後道端で瓶を洗い流すのです。だから路地中臭くて、文明国に住んでいた人は耐え難いものであったでしょう。人間はいずれにしても慣れるものだとわかります。ベーコンが中国の将軍の若い三人の妾に英語を教えるアルバイトをしています。同じ年代ですから仲良くなります。贅を尽くし、庶民の女とは民族が違うのではないかと思われます。日本人との関係は二つ記しています。一人はユダヤゲート―を管轄する日本の役人です。身長が低いので、机の上に上がり物差しでベーコンの父を叩いていましたが、振り払うと途端におとなしくなり、事務手続きを手際よくするようになったそうです。もともと弱いくせに威張る癖が日本人にはあるということがわかります。もう一人は、高級将校で、ベーコンの女友を妾にしようとして、缶詰や、彼女らの手に入らぬものを倉庫から取り出して、食で釣ろうとする軍人です。このようでは戦争に勝てるはずがありません。日本の軍人は補給には無関心だか、性の補給は並々ならぬ手当を施すようです。
アメリカで銃で大量殺人を犯すのは大概白人人種です。少し前には黒人の青年が白人の女にちょっとでも声をかけるとリンチにかけられて吊るされていました。陰謀論もヨーロッパやアメリカの白人層から出来上がったものが多いのです。この論と他人種に対する残忍な対処に共通するものは被害妄想です。彼らの唱える民主主義は彼らの内で留まっているときはユダヤ人迫害程度で終わっていたのです。程度どころではありません。酷いものです。黒人や黄色人種は動物か家畜程度ですかから民主主義の埒外で、どのようにも処理して一向にかまいません。ところが第一次世界大戦後の日本の人種不平等是正の要求や公民権運動の高まりで、白人層の他人種に対してのあからさまの好き勝手が許できなくなります。それで白人層の若者は自分の権利が剥奪されたと思い込むようです。おまけのキリスト教国には千年王国という考えがあるように、悪と正義が闘って最後には心正しき者だけが救われ、あとはすべて業火で焼き殺されるということで、常に自分らが正しいと思っています。それで常に自分たちは正しい、悪は自分以外だというストーリーを絶えず作り出さないといけない状況になるのです。陰謀論と人種差別は根が一つということになります。
私の父が大正7年生まれ、母が大正10年生まれです。私の祖父は三篠で床材屋をしていました。父は三篠橋のたもとで近所の材木商の息子たちと泳いだり、釣りをしていたそうです。川伝いに広島城の堀までも泳いでいったそうです。ガキ大将だったのでしょう。小田億の息子も相撲大会で投げ飛ばしています。尋常高等学校を卒業し、大工の見習になります。昭和11年に徴兵検査を受け兵隊になります。新天地で映画や芝居をよく見ていたということです。父の大正時代は小学校二、三年生頃まででしたが、関東大震災が起こり、祖父は株で大損をし、商売は衰退していきます。で、とうとう父の兄が務める海軍の鎮守府がある呉に引っ越すことになりました。
この本で佐伯郡の大野村の高等小学校の生徒が書いた広島一日修学旅行のことが載っています。己斐駅に着いてから後、一日中広島市内を歩き回っているのです。全行程では20キロメートル以上になるでしょう。おまけに比治山まで登っています。大した脚力です。今の生徒では考えられないことです。
大正時代のちょっと後までは喪服は白です。村の葬式の写真が載っていますが、韓国のドラマのように全身白づくめです。風習というものはいつの間にか変わっていくということがわかります。これも西洋を真似たということです。